8.Heretics 異端
もろみの塔には、基本的に異端というものは存在しない。飲酒を通じて天国への道を探るという意図に於いて、あらゆる酒飲みは平等であらねばならない。その人の酒品の善し悪しはともかく、すべての酒道は天国に通じているのである。
しかし、そのように寛容なもろみの塔においても、異端の臭いを感じることがまれにある。そのような言動を異端と断定することにはきわめて抵抗があるものの、このような思想があるという散光として、ここに列記する。
・俺の酒が飲めないか派
いわゆるシャクティーという苦行教徒の分派と思われるが、悟りに至る苦行を重ねるという意図がいつの間にか「他人に酒を無理強いすることにより、無理矢理苦行をさせて救いへと導いてやるのだ」というはなはだ独善的な救済思想に凝り固まったものである。
無論、無理強いされた酒が旨かろうはずもなく、そのような酒を人に飲ませた者は、地獄の腐造もろみに放り込まれ、永遠にツワリ香紛々の酒を飲まなければならないのである。
・ノムトトラダス派
酒を飲んだだけでもろみの塔の門をくぐったような錯覚に陥り、徒党を組んで高歌放吟・乱暴狼藉を行う者である。この派は思想ではなく「病気である」という説もあり、特定の環境で「同じ釜の飯」を食うことにより感染すると言われている。
・悪魔数杯
ケスミノーイ・ナタキジィと呼ばれる酒飲みの悪魔にとり憑かれた者が陥ると言われ、飲み会の切り上げ時になっても「もう一杯、もう一杯」と長っ尻を決め込み、他の信者に迷惑をかける。
ノムトトラダス派などに比べるとかわいいものだといえないこともないが、酒行の意味をはき違えている。そのような根性でいくら酒を飲んだところで、もろみの塔に至ることは不可能であろう。
・週末派
正式には神は定めて週末を飲酒日とした派と呼ぶらしい。天地醸造において、神は週末の安息日において酒を飲み始められたことから、ひともそれに倣って週末以外は酒を飲むべきではないとする、一種のファンダメンタリストである。
確かに一見するにこの説が異端をなしているとは見分けがたい。しかしながら、おおよそもろみの塔信者において、週末ではないからという理由で酒行を断るというのは自然の理に反することではあるまいか。
「週末以外に酒行を行わないことを天酒がお望みなら、週末以外には飲めないように酒又はひとをお作りになったはずである」(新酌清酒より)。
・禁酒派
ひとの醸す酒は真酒の偶像にすぎず、そのようなものをひとが造り・飲むのは天酒への反逆行為であるとする一派であり、ひとが天酒に近づく手段として地酒を醸し、その酔いを通じて天酒の許へと至ろうとする行為を真っ向から否定するものである。天酒のみを唯一絶対の酒とし、それ以外の酒を「その他の雑酒」とさげすんでいた、かつての天酒教の思想を色濃く残しているとも言える。
酒を飲まずしていかに酔いの本質に至ることが出来ると考えるのか不可解であり、イメージとしての真酒をのみ是とし、現実の酒を否定すること自体著しい偶像崇拝であり異端思想なのであるが、禁酒派は偽りの酒に目を向けない、自分らこそ真のもろみの塔信者と思いこんでいるのである。
・聖杯崇拝
かつて地上に実在した「もろみの塔」において、天酒が至上の酒を飲んでいた杯が、未だ地上のどこかに存在するという伝説を信じる一派である。
この聖杯に注がれた酒は、どのような凡酒も美酒に変じると言われているが、そのようなご都合主義はいわば屑米で大吟醸を仕込もうとするに似た愚考であり、そのような安易な考えは、やがて悪魔ケスミノーイ・ナタキジィに魅入られる、地獄への道であると知るべきである。
・狂信派
何事においても酒の力に頼ろうとする一派。もろみの塔の求める境地に「酔醒一如」があるが、狂信派においては酔いに身を任せることが唯一の目的であり、快楽となっている。
あらゆる宗教は麻薬であり、酒もまた弱いながら麻薬的性質を有するという意味では、過度にその力に頼りすぎてしまうのも、人間の弱さの現れといえよう。
とはいえ、快楽におぼれることが信仰の主たる目的であるはずはなく、もろみの塔は理性の締め付けから精神の自由を取り戻す、「内なるもろみの塔」をうち立てる便法として飲酒を勧めているのみである。
便法の酒に淫するようなやり方では、禁酒派につけ込まれるのみであろう。