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タイトルGESORTING 201 雪掻きとエントロピー
記事No104
投稿日: 2014/02/15(Sat) 13:46:46
投稿者geso
×ジュゼッペ・トルナトーレ『鑑定士と顔のない依頼人』(2013 伊)
 <極上のミステリー>というキャッチコピーに騙された.全然意外性のないプロットだし,一方的な「騙し」が描かれるだけでコン・ゲームにもなっていない.美術ミステリ映画として『トランス』より面白そうだと期待していたのに,残念.

△想田和弘『選挙2』(2013 日・米)
 監督は被写体に普通に関与していてもはや観察者の立場からは逸脱しているから,「観察映画」というキャッチコピーは止めてもいいのでは.音楽とナレーションを排しているという特徴はあるけど,普通に「ドキュメンタリー映画」といえばいいんじゃないか?
○同『Peace』(2011 日)
 と思ったら,『選挙2』よりも古い本作――介護と猫を巡るドキュメンタリー――では,今まで観たうちでいちばん被写体に話し掛けていた.
 観察映画「番外編」とのことだが,改めて「観察」の意味を考えさせられた.通常「観察」は「事物や現象を注意深く組織的に把握する行為」(ブリタニカ百科事典)を意味するが,想田の「観察」は「組織的に把握する」ことを避けている.先入観を排して事象そのものの「一瞬」に立ち会おうとする意思.「観察映画」ではなく「直観映画」.

○石井裕也『川の底からこんにちは』(2010 ユーロスペース/ぴあ)
 平凡なOLが病に倒れた父親に呼び戻されて田舎のシジミ工場を継ぐという設定に目新しさはないが,初めは全然いいところなしと思わせながらいつの間にか共感を抱かせる満島ひかりのリアルな演技や,真面目ぶりと巫山戯ぶりのバランスが絶妙なオフビートギャグの連続に引き込まれる(ちょっとカウリスマキっぽい).脚本と演出さえ良ければ低予算でも面白い映画は作れるという好例.

△池田敏春『女囚さそり 殺人予告』(1991 東映ビデオ)
 岡本夏生が4代目松島ナミを演じたVシネマ.伊藤俊也版へのオマージュとしてハチャメチャ振りは受け継いでいるが,演技力不足の岡本夏生には荷が重かった...

△黒澤明『羅生門』(1950 大映京都)
 ちゃんと観たのはひょっとしたら初めて.『羅生門』の設定も借りているが原作は『藪の中』.多視点による作劇法は当時としては新鮮だったのだろう.
 気になったこと: いくら平安時代でも,屍体の刀傷が太刀によるものなのか短刀によるものなのかの区別くらいはつくんじゃないのか(いくら短刀が紛失していたとはいえ)? 最後に棄て児の赤ん坊を引き取った木樵り(志村喬)はその後ちゃんとその子を育てたのかな?

○道尾秀介『月と蟹』(文春文庫 2013.親本 2010)
 登場人物の心情の揺らぎを胸苦しいほど生々しく描いた純文学寄りの長編.久し振りに読んだら格段に巧くなっていたので吃驚.直木賞は当然かも.
 主人公を中学生に設定したら生臭くなりすぎるから小学六年生に設定したのかも知れないし,舞台は平成の鎌倉なのに昭和っぽい雰囲気を醸し出しているのも狙ったことかも知れないが,同業者に「道尾の文節の構築には」「あざとさは皆無である」(伊集院静の解説)と信じ込ませるくらいだから,計算ずくであったとしても大した伎倆ではある.
 という訳で,気になったので道尾作品を続けて読んだ.

○道尾秀介『カラスの親指』(講談社文庫 2011.親本 2008)
○同『龍神の雨』(新潮文庫 2012.親本 2009)
○同『片眼の猿』(新潮文庫 2009.親本 2007)
 どの作品も見事でした.
 『カラスの親指』はコン・ゲーム小説とも言えるが,ミスディレクションの手口からミステリファンの読者を想定していると思われる.
 しかし,『龍神の雨』あたりからは,ミスディレクションは使ってもミステリファンに限定しない読者を想定しているようだ.『月と蟹』もそうだが,純文学っぽい表題――未読作品では『球体の蛇』や『光媒の花』――が増えていることからもその傾向は窺える.ミステリに括られるのが嫌なのだろう.
 『片眼の猿』は読み始めてすぐ既読だったことを思い出した.4年前に読んで,震災後処分していたのだった.癪ではあるが,ダブり買いはままあることだし,再読しても楽しめたのでよしとする.改めて感じたのは伊坂幸太郎のセンスとの近似性.『片眼の猿』にはそれが顕著で,『アヒルと鴨のコインロッカー』などが想起される.

○ゲイル・キャリガー『ソフロニア嬢、発明の礼儀作法を学ぶ』(ハヤカワ文庫FT 2013)
 スチームパンク乗りのラノベ.こういうキャラがはっきりしたシリーズものは,何も考えずに楽しめばよい.

○久住昌之・谷口ジロー『散歩もの』(扶桑社文庫 2009.親本 フリースタイル 2006)
 『孤独のグルメ』のコンビによる散歩エッセイ漫画.谷口の細密な絵が文庫版の限界に挑むかのような「原画再現力」をもって採録されたのは,印刷所の担当者が『孤独のグルメ』の大ファンで命懸けでやってくれたお陰だという,イイ話.最終話に出て来る川上宗薫の絶筆「死にたくない!」が読みたくなった.

○諸星大二郎『瓜子姫の夜・シンデレラの朝』(朝日新聞出版 2013)
 久々に諸星の新作が読めた.それだけで嬉しい.

○清野とおる『ウヒョッ!東京都北区赤羽 第1巻』(双葉社 2013)
○同『ウヒョッ!東京都北区赤羽 第2巻』(双葉社 2013)
 Bbmfマガジン版の9巻目がなかなか出ないなと思っていたら,そういう訳だったのか!と読んで吃驚の双葉社版.全くパワーは落ちていない,ただ事ではない面白さ.

△南條竹則『人生はうしろ向きに』(集英社新書 2011)
 ホラティウス,吉田兼好,チャールズ・ラム,デイヴィド・ヒュームらを引いて,進歩主義を「根拠のない野蛮な思想」として退け,「うしろ向き」に生きることを慫慂する書.私も「Nothing changes for the better.」には同感だが,進歩主義者たちを論破するにはもう少し詳細な内容にしないと,単なる反動主義として無視される危惧もある.

○佐藤正午『身の上話』(光文社文庫 2011.親本 2009)
 「不倫相手と逃避行の後、宝くじが高額当選。巻き込まれ、流され続ける女が出合う災厄と恐怖とは。」(カバー裏より).
 たまたまテレビドラマ版『書店員ミチルの身の上話』の方を先に観たため「語り手」に仕掛けられた工夫に驚く楽しみが失われたのは残念だったが,覆水盆に返らず... だが,文章が非常に巧みなので,筋書きが分かっていても問題なく楽しめた.振り返ってみれば,原作にほぼ忠実だが独自設定を加え細部を膨らませたドラマ版もかなりの出来.

○乾緑郎『完全なる首長竜の日』(宝島社文庫 2012.親本 2011)
 植物状態の患者とコミュニケートできる医療器具が開発された世界という設定はSFだが,展開はマジックリアリズム的.途中で結末の予想はついたが,それでも面白かった.今まで読んだ「このミス」大賞受賞作の中ではベスト.

○福田和代『怪物』(集英社文庫 2013.親本 2011)
 これも<匂い>にまつわる小説.<死>の匂いを嗅ぎ取れる定年間際の刑事,その特殊能力――勿論誰にも信じてもらえないから秘密――によって真犯人と見抜かれるも証拠不十分で逮捕されなかった幼女誘拐殺人の元容疑者,屍体を完全に処理できるテクノロジーを罪悪感なしに使える<怪物>のような青年.彼らが結び付くとどうなるか.
 「先の読めない展開の釣瓶打ち」(三橋曉の解説)というのは嘘で先は読めるが,それでも最後まで目が離せないのは,本作が謎解きのミステリではなく,ヒトが隠し持つ<怪物性>を描くサイコサスペンスとして秀逸だから.
 気に入ったので,テレビドラマ版(読売テレビ 2013)のDVDも観たが,こちらは×.尺やキャスティングによる制約もあろうが,単純化しすぎた脚本と,<正義>が復権するかのように書き換えられたエンディングが,原作の良さを台無しにしている.佐藤浩市――定年間際には見えないので左遷間際の刑事という設定に変えられている――の熱演はまだしも,向井理はツルンとしすぎて闇を抱えた<怪物>には見えずミスキャスト.

○我孫子武丸『さよならのためだけに』(徳間文庫 2012.親本 2010)
 DNA診断を活用して組合せの良否をランク付けする結婚仲介企業――その創始者は流石に公言はしないものの,最大多数の最大幸福と優生主義が人類の未来のために正しいと信じている――が政府と結託して世界を牛耳っている近未来が舞台.そこで「特A」の組合せとされたカップルが新婚直後に相性が合わないことに気付き,成田離婚しようとするも様々な妨害に遭いながら「共闘」する... 先の展開は読めるけれども面白い.絵空事とは思えない設定のディテールに説得力あり.

 という訳で,先の展開が読めても楽しめる小説がたまたま続いた.要はプロットに意外性がなくてもディテールと文章力で引っ張ることは可能だという,当たり前のことなのだが.

△樋口毅宏『さらば雑司ヶ谷』(新潮文庫 2012.親本 2009)
 サブカル系に偏った博覧強記ぶりで一部で人気があるらしい作者のデビュー作.巻末のネタリストに舞城王太郎の名前はないが,舞城の初期作品が持つスピード感を想起させるドシャメシャなピカレスク小説.良くも悪くもB級映画を小説化したような底の浅さを感じるが,そこが良いという人もいるんだろうな.

△城平京『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫 1998)
 数多のミステリを研究したうえで敢えて大時代的な作品を書く反時代的姿勢には好感が持てる.そういえばやはり反時代的なミステリを書き続けた加賀美雅之は去年亡くなったんだっけ...

○天藤真『大誘拐』(創元推理文庫 2000.親本 カイガイ出版社 1978)
 誘拐ミステリの古典.営利誘拐された大富豪(聡明な田舎のお婆さん)が犯人グループ(間の抜けたムショ仲間3人組)を指導して(!)警察と破天荒な攻防を繰り広げる.現在では使えそうにないトリックも多いが,今読んでも十分に面白い.久々に爽やかな読後感.

○赤江瀑『八雲が殺した』(文春文庫 1987.親本 1984)
 泉鏡花賞受賞の表題作を含む短編集.皆川博子の旧作・新作が続々刊行されている昨今,皆川と並ぶ幻視者でありもはや新作を読むことは叶わない赤江瀑の全集が出ることを切望.

●前回の続き
 清水義範『迷宮』(1999)と貫井徳郎『微笑む人』(2012)の両作品は,「犯人はほぼ確定している――自供も得られている――が動機は異常と見なされる殺人事件に興味を持った小説家が,ノンフィクション作品として纏めるべく取材を進める過程を描く」というプロットが共通している.
 こうしたプロット自体は特に珍しいものではなく,例えば折原一の複数の作品にもあったと記憶するが,折原作品と異なるのは,両作品とも「叙述トリック」を排している――その意味では設定上ストレートなミステリである――という点.
 より重要なのは,茶木則雄による清水作品の解説文から引用すれば,「犯罪報道における「事実」とは何か。人は、自分に理解できる「事実」を捏造し、勝手に理屈を付けたがっているだけではないか。人間の行動には、言葉では説明できない部分がある。人の心の奥底にある真相は、他人にはそう簡単に、わかるものではない」というテーマが,両作品に共通していることである.
 両作品とも犯人の<真意>という存在自体に疑問を投げ掛けており,ミステリとしては掟破りとも言える訳だ.
 しかし,プロットとテーマが共通しているのは偶然の一致であって,貫井が清水作品を盗作をしたとは思えない.
 それは,『微笑む人』の刊行によせて,「既存のミステリーとはまるで似ていない」「言霊がぼくに書かせた作品」であり,「読者が無意識に抱いてしまう、物語への期待」を「粉々に打ち砕くだろう」と貫井が自負していることから,彼が清水作品を未読だと推測されるからである... 類似する先行作品を「知らなかった」とあっては,ミステリ専業作家として不見識の誹りを免れないかも知れないが.
 両作品の最大の相違点は,清水が結末を「ミステリ小説」の内部に着地させようとしたのに対して,貫井はその外部に着地させようとしたことだろう.
 どちらの試みが成功しているかの判断は読者によって異なるであろうが,私はいずれの結末にも満足できなかった.一読者の我が儘に過ぎないが,いずれでもない着地点があり得たのではないか――それが読みたかった――という思いが強いのだ.

2014.02.15 GESO