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タイトルGESORTING 154 おいちょっととは言わないが
記事No18
投稿日: 2008/05/21(Wed) 02:33:03
投稿者geso
[黒いカバン]
 いつものように重いデイパックを背負って西武新宿駅前の横断歩道を渡っていたら,お巡りに呼び止められた.
 「歌舞伎町で防犯活動してるところなんですが,お持ちの鞄の中にはハサミとかナイフとかは入ってませんか?」だと.
 実際入ってなかったから「いいえ」と答えて解放してもらったけど,もし入ってたとしても答えは同じだったろう.いずれにせよ中を見せろなんて言われたら拒否するし.
 久し振りに泉谷しげるの歌を思い出した...

[大して読んでない]
○こなみかなた『チーズスイートホーム 5』(講談社モーニングKCDX 2008)
○青池保子他35名『猫本 2』(講談社KCDX 2008)
○日本橋ヨヲコ『少女ファイト 4』(講談社 2008)
○北道正幸『プーねこ 3』(アフタヌーンKC 2008)
 以上は続き物の漫画.たまたま猫もの多し.
○別冊宝島1499『流行り歌に隠されたタブー事件史』(宝島社 2008)
○松井今朝子『今朝子の晩ごはん』(ポプラ文庫 2008)
○水村美苗『本格小説 上下巻』(新潮文庫 2005.初版2002)
○原宏一『天下り酒場』(祥伝社文庫 2007)
△内田樹『子供は判ってくれない』(文春文庫 2006.初版2003)
○阿久悠『夢を食った男たち』(文春文庫 2007.初版1993)
○岩戸佐智夫『著作権という魔物』(アスキー新書 2008)
 最近読んだ本は意外にハズレが少ない.
 内田センセの本の中では「文庫版のためのあとがき」が一番素直な文章で良かったけど,そこで彼は「すぐにアウト・オブ・デイトになることば」=「少し前だと、書いている本人にとってさえ意味不明のことば」を批判して,自分は未来においても過去においても「リーダナブルなテクスト」を目指す/目指してきた,みたいなことを書いている.
 ご立派な正論だと思うが,それでは,押し留めることができないグローバリズムの流れに巻き込まれて戻れなくなってしまった「世界の現在」を何とか記録しようともがき苦しむ岩戸佐智夫の本には価値がないのかというと,そんなことは全くなくて,これは正に今読まれるべき本だと思う.確実に暗鬱になるけれど...
 阿久悠の本には,そんな暗鬱な時代が来る予兆を,15年前に感じ取っていたことが記録されている.
 てな話は今度改めて書きたい――今読まれるべきとか言っといて今度なんて言うのもなんなんですが.

[ローソン雑誌コーナーにて]
 あれ,「美術手帖」大判になったのか?と思ってよく見たら「BT (Baseball Times)」であった.そもそもコンビニに美手なんて置いてる訳ないですね.

[しつこくマーク=アーモンド]
 弾みがついて,今のところ最新盤と思われる――と言っても1996年のリリース――"nightmusic"をゲット.ドイツのレーベルらしいから,タイトルも "nachtmusik" にすれば良かったのに.
 マークはニュージーランド,アーモンドは北カリフォルニア,二人が使いたいセッション・ミュージシャンたちはオーストラリアにそれぞれ住んでいて,一堂に会するのが困難なのだが,「モダン・テクノロジーの驚異のお陰で」作成できたアルバムだという.要するに,データをやり取りしてディスタント・セッションで完成させたって訳.
 うーむ,相変わらずマークの作る楽曲は美しいけれど,アウラは薄まっちゃってるなあ.これなら「AOR」と称しても違和感はない.AOR自体,死語かも知れないが...
 これでマーカモで未聴のアルバムは,残すところ "To the Heart "(1976)と "Tuesday In New York"(1980)と "The Last And Alive"(1994)の3枚である.期待はできないが,機会があれば聴いてみたい.
 マークのソロは全部で10枚は出ているようだが,そっちはどうするか...
 それにしても,なんで新宿ツタヤの検索機ではマーカモが「レゲエ」に分類されているのだろう.レゲエじゃないことだけは確かなのに.

[久々に映画など]
 東京国立近代美術館フィルムセンターの企画「発掘された映画たち2008」のうち,「レコードトーキーの復元」(全16作品・計70分)と「発掘されたアニメーション映画」(全9作品・計109分)を鑑賞.

 まず「レコードトーキーの復元」特集.
 「レコードトーキー」とは,サイレントフィルムとSPレコードを同調させたもので,トーキー初期に家庭に普及したということだが,実際には裕福な家庭に限って普及したものと想像される.
 「本プログラムはSPレコードの音声をサウンドトラックに焼き込み「トーキー版」として復元したもので、失われてしまった上映形態(短命映画規格)の復元成果」でもあり,「フィルムとレコードはすべて飯田雅三氏から寄贈されたもの。」(解説より)
 衣笠貞之助監督『月形半平太』(1925年.残念ながら,音と映像は殆ど合っていなかった)から大石郁雄監督『文福茶釜』(1932年)まで,貴重な作品ばかりだったが,内容は正直言って他愛ないものばかり.
 今観ても面白いと思ったのは,次の2本ぐらいである.

『マリチヤンノヱホン』1930(日本キネマ商会 監督不明)
 まぁ,主演の「キョウコサン」(まだ就学前の幼児?)が可愛いかったということだけですが.

『茶目子の一日』1931(協力映画製作社 監督西倉喜代治)
 ひさうちみちおみたいな絵柄のアニメで,モダン.

 ちなみに,寄贈者である飯田雅三――どういう人かは知らないが,来場して挨拶してた――の父親が撮影した『大きくなるよ』は,後の8ミリフィルム〜ビデオによる子供の成長記録の走りと見なせる3分間の作品だが,今日びの同趣向の素人作品よりも観るに堪えるものだった.編集が巧かったということだと思う.

 「発掘されたアニメーション映画」特集.
 日本で二番目に古いコマ撮りアニメ(『なまくら刀(塙凹内名刀之巻)』1917)を始め,昔話や童話を元にしたもの(『浦島太郎』1918,『漫画 瘤取り』1929,『ガリヴァー奮とう(「とう」の字がない.古いもんがまえに「斗」)記』1950,『古寺のおばけ騒動』1936)や,教育的作品(『火の用心』1930.これは実写アニメ)など,いずれも他愛ないながらも楽しめたが,興味深かったのは次の3作品.

『熊に喰われぬ男』1948(三幸映画社 監督オーフジ・ノブロー)
 画作者は仁間七呂という人(データなし)だが,キャラが杉浦茂にそっくり(猿飛佐助系).杉浦は既に1932年漫画家デビューしているけれど,『猿飛佐助』は1954年の作品だから,ひょっとしたら杉浦の方が真似たのかも知れない.偶然にしては似すぎていて,気になった.

『狐と小鳥』1948(近代映画株式会社 監督森野佐登志 原作月村正雄 撮影淺野惠 作画里見修)
 ディズニー映画の影響が顕著だが,ストーリーはハンナ&バーベラふうの追いつ追われつもの.「トムとジェリー」等のテレビ作品が日本に入って来たのは1960年代に入ってからだが,米国ではテレビ以前に1940年に第1作が映画として公開されているそうだから,そっちの影響を受けているのかも知れない.もっとも,日本公開年は未確認なので,もし未公開だったとすれば,偶然の一致ということになる.

『バクダット姫[最長版]』1948(三幸映画社 監督芦田巖 原作若林敏郎 脚本芦田宏昌 撮影河西昭治 音楽服部良一)
 今から観ると,キャラやアングルは手塚治虫を思わせるが,手塚の漫画家デビューは1946年,憧れていたアニメに係わるのは1960年代以降だから,実際には関係ない.だが,アニメマニアだった手塚が本作を観ていたことは確実だろう.物語は単純だが,飽きずに観られた.

 ライズXで『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』2004(監督ジェシカ・ウー)を鑑賞.
 テレビ向けに作られたドキュメンタリーらしいが,ダーガーを知る隣人たちへのインタビュー,自伝の複数者による朗読,大作「非現実の王国で」からの朗読(一部はドラマめかした作り),作品解説,暮らした街(シカゴ)の往年の宣伝フィルム,アニメ化された絵画作品...等々から成るパッチワークである.
 死後30年以上も経って,故人を記憶している人自体が少なくなってきたことを考えれば,制作のタイミングとしてはギリギリの線だったと思う.
 実際,隣人たちの発言には,一致しない点も少なくなかった――ミサのときに座っていた定位置が,最前列だったとか,一番後ろだったとか.
 そもそも姓の読み方が「ダーガー」なのか「ダージャー」なのかさえもはっきりしないというのだから,謎の人物ではある.身寄りのない貧しい掃除夫として,殆ど人付き合いもなく一生を終えた人だから,無理もないことかも知れないが.
 作品のアニメ化には賛否両論あったようだけど,俺は良いと思った.
 ダーガーが生きていたらどう思っただろう――そんなに悪い気はしなかったのではないだろうか.だって,彼の空想の中で,ヴィヴィアン・ガールズたちはいつも飛び回っていたに違いないのだから.
 それにしても,もしダーガーのアパートの大家――旦那はもう亡くなっていたらしく,日系人の夫人がインタビューに応じていた――が普通の常識人であったならば,彼の膨大な作品群は「変質者の気味の悪いコレクション」として処分され,恐らく陽の目を見ることはなかっただろう.
 アート好きの大家とか,故人との約束を反故にして遺作を焼却しなかった友人とかが,後世の役に立つこともあるのである.

[音楽非武装地帯]
 インターネット嫌いのONNYKが重い腰を上げて「音楽非武装地帯」というブログを始めた――と言っても自前じゃないから,本コーナーと大して変わりないな(あかなる〜むもリンクを張らせて貰ってはどうでしょうか).
 http://bloomingsound.air-nifty.com/ongei/onnyk/index.html
 で,早速コメントした.俺の他にも2人コメンターがいたが,ONNYKの反応はと言えば,

> 全てにお返ししたいのは山々なんですが、ちょっと厳しいですね。また個別のテーマで論じたく思います。そんな訳で、丁寧なコメントをいただきながら、失礼する事をお許し下さい。次はまた全然違う話題で登場しますので宜しくお願いします。

である.
 うーん,応酬がないのは詰まらないぞ.
 コメントを書きながら,自分で誤りというか矛盾に気付いた箇所があったんだけど,誰かに突っ込んでもらった方が面白いと思って,せっかくそのまま載せといたのになー.
 かと言って,話題の打切りを宣言した場所にしつこくコメントを書き込むのもイカガナモノカだし...
 で,場違いかも知れないが,ここに続きを書いとくことにした.先のブログも読まないと訳が分からないので,乞参照.

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5/12日付のコメントに矛盾したことを書いたので,自己批判してみる.

GESOが音楽の定義と称しているものは,音楽を作る側からの定義であるが,一方では,川のせせらぎを例にとって,何を音楽と捉えようと聞く者の勝手だとも言っている.(←記述A)

「CDを楽しむ聾者」のパラグラフにおいて,CDから流れているのはGESOが定義する「音楽」であり,聾者はそれを勝手に(自分にとっての)「音楽」と捉えている.(←記述B)

記述Aと記述Bの間に齟齬がないのにも拘わらず,GESOが「彼/彼女にとっての音楽は、俺が定義する音楽の範疇には入らない。」と結論付けているのは,矛盾した態度である.
これは,作る側から聞く側に対する,音楽の定義の押し付けのように思われる.

作る立場と聞く立場に共通の「音楽」の定義がない限り,こうした矛盾は常に発生の余地がある.
それでは,聞く側にも「勝手」ではない定義が必要なのだろうか?

ところで,また話を引っ繰り返すようだけれど,俺が問題にしたいのは実はそういうことではない.

聞く側は無数の定義付けを為し得るし,為してきたし,これからも為すだろう.
俺が示したいのは,「聞く側が音楽を定義することに果たして意味があるのか」という,ある種身も蓋もない問いである...
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と,こんな感じで話を続けてみたかったんですけどね.

2008.05.21 GESO