タイトル | : GESORTING 158 ハードにOK! |
記事No | : 54 |
投稿日 | : 2008/08/19(Tue) 23:57:59 |
投稿者 | : geso |
[夏ダカラコウナッタ] 今年の夏は去年よりも確実に暑い.部屋も暑いがパソコン筐体内部は当然更に暑い. HDD Health(ハードディスク診断ソフト)が「危険!内蔵HDの温度が53℃でっせ!」と警告を発したので,こりゃ流石にヤバいと思い,HDに直接取り付けるタイプの冷却ファンを購入.1個1,100円×2――メイン及びミラリング用――でクラッシュを回避できるなら,安いもんである. 導入した結果,HDの最高温度を46℃までクールダウンできた――部屋を冷やせば最低38℃くらいまでは下がる.もう少し下がらないものかとも思うが,これ以上望むとすれば少し大掛かりな装置が必要になるので,取り敢えずOK.
[求めよさらば開かれん] ジョナサン・キャロル収集最後の一冊『炎の眠り』(創元推理文庫 1990)を,何かありそな気がして寄ったブックオフ4号せんげん台店(越谷市)で発見. 相場を踏まえない値付けのお陰で105円で入手できたので,凄く嬉しい(しかも美本). ブクォーフの値付けは殆ど統一されてるようだが,稀にこうした例外もあるので要注意だ. 最近では『山田風太郎ミステリー傑作選』1〜7巻(光文社文庫 2001)を白井富士店(←白井市)で各105円で入手できたのも,ラッキーだった. ただし,山風の本シリーズ(全10巻)の残り3冊を廉価で集めるのは,かなり困難.買うとすれば――運に恵まれぬ限り――1〜7巻までの購入額合計の倍以上の出費は必至だが,見付けたらきっと買ってしまうだろう...ってことでOK?
[クラウザーさん] の大受けを一番苦々しく思っているのは実はデーモン小暮閣下ではないだろうか. それにしてもDMCブームを真面目に分析してる人が殆どいなのは何故だろう.ガス抜き(←何の?)として成立してることは確かなのに... おちゃらけで終わらせてOK?
[阿久悠一周忌] ということで,日本テレビが8月1日に開局55周年記念ドラマ「阿久悠物語」を,NHKが8月5日に特集・NHK歌謡コンサート「阿久悠 歌よ時代を語れ」を,それぞれ放映した(どちらも冒頭は見損ねた). 日テレのは,阿久の自伝の一つ『夢を食った男たち』――「スター誕生」の舞台裏を中心に描いた作品――に概ね沿った内容で,監督は金子修介(←『失われた歌謡曲』(小学館 1999)は名著である). 阿久役が田辺誠一ってのはピンとこないし,鈴木ヒロミツ役がパパイヤ鈴木ってのも悪い冗談だろ...といったキャスティングへの不満はあるものの,日テレとナベプロの全面戦争や,山口百恵との対立に至るスレ違いといった当事者にとって余り愉快ではない史実も率直に描かれていて――まぁ時効だろうしね――綺麗事ばかりじゃなかった点は,OK. NHKのは,沢田研二とかピンク・レディーは流石に昔の映像だったけど,尾崎紀世彦・山本リンダ・五木ひろし・石川さゆり・小林旭・都はるみ・森昌子・石野真子・八代亜紀・北原ミレイ・ささきいさおは生出演.他に,直接関係ないが松浦亜弥とジェロが出てカヴァーを歌ってた. 阿久の幅広い作品群をできるだけ網羅しようと,NHKなのに「ピンポンパン体操」や「ウルトラマン・タロウ」まで生演奏で流し,限られた時間枠に無理矢理詰め込んでた感じ. 思うことは多々あったが,尾崎紀世彦(「また逢う日まで」)と森昌子(「せんせい」)の歌唱力の低下は聴いてて痛々しかった. また,この二人や,山本リンダ(「どうにもとまらない」)もそうだが,原曲の譜割や旋律の一部を変えて妙に癖のある歌い方をしていたのが,耳障りだった.ずっと同じ歌い方ばかりしてるのに飽きてこうなったんだろうけど,こういう場では歴史的ヒット曲は元歌どおりに歌うべきだと思う.その点,アキラ(「熱き心に」)の歌唱は昔どおりで良かった――体型は見る影もなかったが. あと,都はるみがやたらコブシを強調して「北の宿から」を歌ってたのは,当時この気に入らない楽曲をコブシ抜きで歌わされたこと――それでも大ヒットしてレコ大まで獲れたから文句は言えなかった――への遅ればせの意趣返しか?...といった妄想も楽しめたので,この番組もOK.
[さだめのように川は流れる] というのは,杏(きょう)真理子という実力派歌手のデビューシングル(日本コロムビア 1971). 阿久悠作詩/彩木雅夫作曲/馬飼野俊一編曲で,今では阿久悠の14枚組CDボックス『移りゆく時代 唇に詩』(日本ビクター 1997)か,オムニバス『青春ヒットファイル〜ドーナツ盤の時代〜17』(コロムビアミュージックエンタテインメント 2001)でしか聴くことができない不穏な名曲だが,神保町の冨士レコード舎で初めて中古盤を発見し,1,080円で購入. この曲にまつわる不幸な出来事は,阿久悠自身の文章を読んでもらった方がいいだろう(http://www.aqqq.co.jp/favorite_song/fsc17.html). 同タイトルのLPも存在するが,まず出回らない.是非CD化して欲しいんだけど,OK? 無理か...
[想像力の問題] 昨年10月逝去した打海文三の『ハルビン・カフェ』(角川文庫 2005.初版2002)を,ブクォーフ6号南柏店で発見.前から読みたかったし105円だったので,購入. 毀誉褒貶ある作品らしいが,俺は○. 貶す側の意見は概ね「馳星周に代表される国産ノワールの寄せ集め」だとか「徒に複雑な構成で分かりにくい」といったところだが,それだけでは済まされない奥行きはあると思う. 福井県西部に大陸から大量の難民が押し寄せて出来上がった犯罪都市「海市」を舞台に,中・韓・露マフィア,警察,公安,警察内部の過激派地下組織が入り乱れてテロと暗闘を繰り返す.その混乱を背後で操る徹底した「悪」のヒーローの正体は? お約束の乾いた暴力描写にも無論事欠かないが,周到な(架空の)歴史設定を背景に,多数の語り手による断片的描写を積み重ねる手法によって,紋切り型のハードボイルド小説の異化にある程度成功している.意図的に(?)論理的構成を採っていないため,ミステリとしては不満もあるが,カッケーからOK.
[DVDと本] △平山秀幸『しゃべれどもしゃべれども』(2007) 佐藤多佳子の原作は未読なので分からないが,映画版は「自己啓発もの」という印象.別にネタが落語じゃなくたって何でも――話し方教室でも創作講座でもパンクバンドでもフラダンスのサークルでも――良かったんじゃないの,と思わせるところが最大の弱点.落語でなくちゃならなかったことを納得させるだけのディテールとエピソードが不足している.国分くんの演技は確かに達者でOKだけど. これを見終わったら,久し振りに森田芳光『の・ようなもの』(1981)を観たくなった.どこかにビデオがあった筈.見付かればOKなんだが...
○ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』(2006) 「現実と非現実が侵犯し合うファンタジー」に見せかけた残酷映画.フランコ軍がパルチザンの生き残りを一掃しつつある内戦後のスペインの田舎――1940年代初期の設定か――という「現実世界」と,本来は彷徨える異界の王女であるという主人公の少女がパン(牧羊神)に導かれて試練を受ける「非現実世界」とが渾然としているかのようだが,よく観ると後者が少女の妄想に過ぎないとも解釈できるように,巧緻に分離して描かれていることが分かる. よって,ダーク(で意地悪)なのは脚本も書いた監督であって,映画自体はダーク・ファンタジーとは言えないけれど,中村獅童によく似た顔のパンはじめ,ナナフシが変形した妖精,ぬらぬらした巨大ガマガエル,日本で言えば「手の目」みたいな姿の子供を喰う妖怪等,キモカワキャラたちの造形が素敵なので,OK. 本作を観て想起された別の作品: テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』・花輪和一『不成仏霊童女』・サラ・ウォーターズ『半身』・丸尾末広『ギチギチくん』 トロ作品の主人公の名前はオフェーリアだが,山田正紀の(今のところ)最新作『オフェーリアの物語』(理論社 2008)の主人公というか,主人公リアの分身のビスク・ドールの名前もオフェーリアだ――人気者だな,オフェーリアって.シェークスピアが生んだアイドルNo.1? 山田作品は,用語辞典が付くところが『宝石泥棒』(早川書房 初版1980)を想起させる「人形は異界で推理する」てな感じの(平行宇宙の)明治時代を舞台にしたファンタジー/ミステリ.. 面白くなってきたところでグゲ,また「続く」かい.続編『オフェーリアのつづきの物語』がちゃんと出るのか例によって不安なので,OKじゃない...
[Boys be ambiguous! − 内田樹という「問題」] 内田樹(以下「センセー」).ファンだからガンガン読んでるが,著作が多すぎて追い付かない.どれを読んでも同じだけど,それでも読んでしまうのがファンの性というものである. センセーは右から見ればサヨクすぎるし,左から見れば保守反動すぎる,蝙蝠みたいな存在かも知れない. これはセンセーの基本スタンスが恐らく「是々非々」だからなのだと思うが,その点は俺だって同じだ.右だろうが左だろうがイデオロギーに凝り固まった奴らは馬鹿に見えて仕方ない. 「押収した猥褻文書の図書館を建てろおれの家の前の道路の幅を拡げろおれの散歩道に便所を増設しろ近所の犬を叩き殺せおれの家の隣に女子大を建てろなどの文句はこっちの思想的立場が保守であろうが革新であろうが関係なく出てくる」(筒井康隆「旗色不鮮明」 初出1974)のは当たり前である――ブルデューなら「関係なく出てくることはない」と言うかも知れんが,それはまた別の話. で,センセーは更に屁理屈と逆説の達人でもあるので,大概の凡人の疑問に対して一見暴論とも思える即答をしたうえ,諄々と説得することもできる――ネゴシエイターになったら無敵であろう. ...と前振りしといて,今回はセンセー否定論を書く. 何故書くか→思想が相対的な「趣味」に過ぎないことはセンセー自身が身を以て表していることで,それに倣うのはファンとして当然の務めだから. 何故書けるか→ファンだけど信者じゃないから. 何を書くか→センセーの言説は所詮レトリックに過ぎないということを. さてどこから始めようかと思ったが,センセーの本は同工異曲だから,どこから採っても構わないのである. エイッと開いたのが『「おじさん」的思考』(晶文社 2002)12頁.
> なぜ、全世界的な規模のグローバリゼーションの圧力にもかかわらず、これほど多くの国民国家や種族や宗教的共同体が地球上にはあふれかえり、それぞれの差異を言い立てているのか? > それは「エコロジカル・ニッチの多様性」が人類の存続にとって必須である、ということを人々がどこか身体の深いところで直観しているからである。
自問自答形式ですね. 最初に引用した段落と次の段落との間の,この何の論証もない飛躍が,センセーのクリシェであり,持ち味でもある. ここで「グローバリゼーションなんて,先進国側の価値の押付けに過ぎないし,結局は経済格差を拡げるだけのものだということをどこか身体の深いところで直観してるから,皆さん反撥してるんじゃないの?」といった異議を唱えたりしては,正しいファンとは言えないのである. 現状批判よりも「原理」を優先するのが学者として正しい態度であるし(一応),センセーが大嫌いな格差論を述べては不興を買うし,この段階でセンセーのご説を受け入れないことには先に進めない(=楽しめない)のである.
(中略) > 生物界では、そういうふうに「ばらけている」ことがシステムの全体の安定には必要なのである。 > すぐれた国際感覚をもつ政治家や外交官はそのことを直観的に知っている。
なるほど.生物界の秘密も,すぐれた政治家たちがそうした秘密を直観的に知っているということも,先生は直観的にご存知なのだ.流石である.
(中略) > それはシステムが生き延びるための知恵である。
...というのは「解釈」が生き延びるための「あと知恵」の一例である.
こうした引用の仕方は「揚げ足取り」だろうか? そうは思わない. 「だってそうでしょ」(←小島よしおの「そんなの関係ねぇ」に相当するセンセーの決め台詞),「テクストの「意味」は、文章それ自体ではなく、そのテクストがどのような文脈のうちに置かれるかによって決定される」――『子供は判ってくれない』(文春文庫版 2006)から,陳腐な一文――のは当然なんだから.
てなところで早くも面倒臭くなったので,終わり. 次回はセンセー肯定論を書いてもOK?(どうとでも書けるところがセンセーの凄さである.)
2008.08.19 GESO
|