タイトル | : 2000/10/01■029 マルコヴィッチの穴 |
記事No | : 128 |
投稿日 | : 2013/10/05(Sat) 09:59:15 |
投稿者 | : 管理人 |
[マルコヴィッチの穴] そこに入れば誰でも15分間だけ俳優マルコヴィッチになれるという,さても不思議なマルコ穴,あたしも入ってみたいんだわ. てなわけで,話題の映画を観て来た.新宿東急の入口は実際に「穴」を模してあって気が利いてる(ちょっとちゃちかったけど). これは面白い! シュワンクマイエル,テリー・ギリアム,コーエン兄弟あたりの影響が感じられるが,深刻さや気取りを排して馬鹿映画に仕上げた点に好感が持てる――意外に根は真面目そうなんだが. どんな内容かは,各誌映画評(大概誉めてる)を参照――というか,言葉で説明しても支離滅裂な話にしか聞こえないから省略. 監督のスパイク・ジョーンズ(冗談音楽の人ではなく冗談ミュージックビデオの人)自身は「ニューヨーク,人形師,悲劇的な結婚,チンパンジー,上司,受付嬢,もうひとりの女,俳優,ニュージャージーの高速道路,ラザニア料理の話」と説明しているそうである.そのとおりであるが,何だか分からないよな,これじゃ. 館内に爆笑が渦巻いたのは,マルコヴィッチ自身が穴に入っちゃうシーン,それから....ハゲ好きには堪らないシーンあり. 観た後で,日本版を作るならマルコヴィッチ役は誰がいいか,といった無駄話をするのも一興.竹中直人,石橋蓮司といった名前はすぐ出てくるが,若い頃の殿山泰司はどうかとか.... ついでに,邦題と上映形態も誉めとこう.原題をカタカナにしただけの芸のない邦題が多い昨今,このタイトルは良いし(原題は "BEING JOHN MALKOVICH"),単館上映じゃなくて全国ロードショーという点も偉い(興行的には無謀かも....).
[A-MUSIKとAMM] 9月30日,法政大学学館大ホールでジョイントライヴ.AとMの文字以外,2つのバンドに共通点はない. 最終的には満員だったから,200人近くは入っていたと思う. A-MUSIKは,曲目はみなお馴染みのものであったが,アレンジが新しくなっていた.いつも思うのだが,本来ダンサブルな筈のナンバーを演ってもどうしてこんなにヘヴィになっちゃうのかしら. 全然関係ない話だが,A-MUSIKの「ぬかるみの兵士たち」を聞くと,いつもほぶらきんの「ゴースン鉄工所」を思い出すのでナシテカナと思い,さっき聞き直してみたところ,俺的には「似た曲」であることが判明.「鉄工所」に「兵士たち」のサビを繋いでも全然違和感ない...か? AMMは95年の初来日のときも観に行っている.そのときは灰野敬二との共演で,噛み合ってないなあと感じたことぐらいしか記憶にない.メモぐらいしとけば良かった. それでも,今回の方が前回よりも更に寡黙かつ微妙な演奏であったことは確かだと思う.ギター以外はアンプリファイしてなかったので,実際に音量が小さかったのであるが(俺はミキシングコンソールの斜め後ろの席に座っていたのだが,卓の前のミキサー氏の椅子が軋む音の方が大きく聞こえたくらいである). いわゆるコール・アンド・レスポンスや白熱のインタープレイとは全く無縁だが決してダレたものではない集団即興演奏は――秋の虫の音を流したりしてたせいもあるだろうが――むしろ日本人の演奏よりも「間」を感じさせる静謐なもので,心地よく寝入っていた観客も結構いた. こういう演奏も良い.たまには,ね.
[狂骨の夢] 「400枚以上加筆の決定版!」なんて言われたら買い直さないわけにいかないじゃないか,ファンの足下につけこみおって. 読み直して分かったことは二つ. 一つは,ディテールの精緻さに目が眩んで一見気付かないが,本作は本質的に「バカミス」であるということ――バカミスに公認の定義はないが,「『いくらなんでもそりゃ無理だろ』と突っ込みたくなるような奇想天外な事件を力業で描いた推理小説」といったところだろうか. 作中で京極堂自身が「これは間抜けな事件だ」と言ってることも,それを示唆する.もっとも,この場合の「間抜け」は,偶然が異常に重なり合った結果としての「間抜け」なのだが.... それに気付いてしまうと,本作以外の京極堂シリーズもやはりバカミスだということが分かる.『鉄鼠の檻』など,その最たるものであろう. バカミスは言い過ぎだとしても,少なくともこのシリーズが読者にとって謎解き可能な推理小説になっていないことは確かである. 非常識な「謎」を設定するとともに伏線を複雑に張り巡らすのも作者なら,それを読み解き事件を解決する/しえるのも超人的な探偵役の京極堂=作者ただ一人である. 普通の推理小説でも結局は作者が自作自演していると言えるかも知れないが,それでも読者に謎を解く余地は残されている.しかし,京極作品においてはそれが不可能に近い.読者は自身で謎を解くことを諦め,作者のアクロバティックな自作自演の妙技を楽しむのが精々である. 「だから」,京極作品は再読に耐えるのかも知れない. もう一つ分かったことは,作者は意外に評論を気にしているということ. 「ユリイカ」誌「特集 ミステリ・ルネッサンス」(99年12月号)のインタビューでは「評論家にとって評論は作品なわけですから。内容はともかく見せ方は考えていただきたいですね。」「実作者になって実感したことに、どんな評論も当たってることなんかないんだというのがあって(笑)。」と,割と余裕をかましてたが,斎藤環(この人,性格悪そう.)の「「精神分析」の呪縛 『狂骨の夢』批判的読解」(青弓社『京極夏彦の世界』所収)を結構気にしてたみたいである. 斎藤の指摘の大半は無視しているが,明らかに指摘に反応して加筆したと思われる箇所も幾つかあるからだ(例によってトリックに触れるので具体的には書けないけれど). 以上二点を勝手に納得できたのが収穫であるが,増補文庫版もいいけど,早く書下し長編を出して欲しい,というのが正直なところである(『どすこい(仮)』はなかった――ものと思って戴きたい).
2000/10/01 GESO
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