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タイトル2001/03/11■045 邦楽ライヴの感想に始まり
記事No145
投稿日: 2013/10/05(Sat) 10:20:04
投稿者管理人
[邦楽ライヴの感想に始まり]
 直後に友人たちに感想を喋ってしまい書く気が失せたのだが,何を喋ったか忘れつつあるので,やはり書くことにする.
 2月20日,渋谷のBunkamuraオーチャードホールで「音楽創生 日本の音・新世紀 次世代アーティストたちの挑戦」という,邦楽の世界では多分若手に属する演奏家たちのコンサートを観た.前半は2バンドの演奏,後半は3人の演奏家によるセッション,という構成.
 打究人(Da.K.T)は,和太鼓――他にアジア・アフリカの打楽器も使う――の3人組.曲打ちや踊りを交えた,様々な「世界のリズム」を折衷した演奏で,乗りはロックっぽい.外見はやや老けたジャニーズ風.若い子たちに人気があるというのは頷ける.
 坂田美子・薩摩琵琶スーパーユニット ビットは,薩摩琵琶と唄・箏・尺八・シンセ・パーカッションの5人組.平家物語を抜粋した弾き語り,オリジナル曲,ヤドランカとの合作などを演奏.ときに癒し系だが,乗りは往年の日本のプログレ? 「竹田の子守歌」を演ったせいもあって,赤い鳥を思い出した.大昔(73年頃か),赤い鳥のライヴを観たことがあるが,フォークじゃなくてプログレだったのが意外だったことを覚えている(録音したカセットを紛失したのが今でも残念).
 「即興バトルセッション」と題された上妻宏光(津軽三味線)・一そう(JISにない!「口」偏に「曽」という字)幸弘(いろんな笛)・茂戸藤浩司(和太鼓.打究人の一員)の3人による即興演奏は,各自が作曲したテーマを基に延々と繰り広げられるアドリブ大会.70年代のジャズやブルースのセッションを思わせる.もともとエレキギターの乗りに近い津軽三味線は,アンプリファイされることによって一層エレキっぽかった.シカゴのライヴハウスで上妻がソロ演奏したとき,地元のブルースマンに「これはブルースだ!」と言われたとか.
 だけど,なんだかなぁ...
 由緒正しい演奏家ばかりだから演奏は当然のように達者で,名人芸っぽかったりするけれど(ノンブレスで吹く篠笛とかね),邦楽をベースに新しい日本の音楽を創造するという前向きな姿勢にも拘わらず,楽曲も演奏形態も西洋音楽の枠組みにすっぽり入ってるし,折衷主義的な志向にはむしろ古臭さを感じる.
 もちろん,別に新しくなくたっていい――というか,そもそも70年代前半までに新しい音楽は出尽くしており,その後は組合せと素材の新しさしかないと思う――のだが,巧いだけで退屈な演奏というのは,ちょっとねぇ.
 楽器こそ和楽器を使っているが,仮に和太鼓をドラムセットに,薩摩琵琶をシタールに,津軽三味線をエレキギターに,篠笛をフルートに置き換えたとしても,全く違和感なく成立してしまう,そんな演奏であり,音楽であった.
 コンサート全体としては,TV番組でいえば新星堂提供「エバーグリーン・ミュージック」(もうないか)とかシオノギ提供「ミュージック・フェア」みたいな,健全で真面目な雰囲気.お客さんも真面目な老若男女・善男善女っていう感じ.
 ところで,このコンサートの主催は,日本音楽著作権協会(お馴染みJASRAC)と日本芸能実演家団体協議会(芸団協.初耳だったが,俳優,歌手,演奏家,ダンサー,お笑い芸人等,あらゆる日本の芸能者の権利をサポートする団体であるらしい)であったが,著作権自体に否定的な俺としては,どうにも嫌ぁな印象を免れなかった.

[話はどんどん逸れるが]
 昔は好き勝手に人の音でテープコラージュを作って遊んでたくせに,偉くなったら「自分の録音物は1秒間たりともサンプリングさせない」旨宣言して,意外に小さなass holeを見せつけた音楽家はフランク・大ザッパであるが,彼を含め,著作権を主張する人たちというのは,きっと作品を作者個人の所有物と考えているのであろう.
 作者など「天啓の器」に過ぎない,というふうには考えることができないんだろうな.
 百歩譲って著作権という擬制を認めたとしても,それを自分で管理しないで,JASRACみたいな第三者に手数料を払って委託するってのは,ちょっと怠惰だと思うんだけどなぁ.
 ザッパといえば,日本のザッパかぶれの音楽家たちがそれぞれ勝手に選曲したベスト盤シリーズってのが,確か去年出てたけど,演奏内容じゃなく,曲名のみで選ぶベスト盤企画というのはいかがでしょうか,元ザッパフリークの金野くん.俺は全部の曲目は知らないので何とも言えないが,知ってるうちで好きなタイトルは「Gスポット・トルネード」だな,確か.なんか凄そうじゃん.

[どこかで繋がる]
 「革命は大人のオモチャである」とは友人の昔の弁であるが,俺はこれは「革命思想とは,大人のオモチャである」の意味だと理解している.
 当時の流行は左翼革命思想だったが,それが廃れた後も,新しいオモチャは次々に出現し,思想好きはそれで遊び,飽きては投げ捨てるということを繰り返してきた.
 何が流行っているかは,例えば『現代思想』や『ユリイカ』といった雑誌のその時々の特集が,ある程度は指標になるだろう.何年かおきに同じ特集が組まれることから,「流行は繰り返す」ということも分かる.もちろん,逐一中身まで読む必要はありません.
 ポストモダニズム凋落後,今でも流行っているオモチャとしては,カルチュラル・スタディーズが挙げられるだろうけど,俺はこれは解釈学のニューモードと解釈しており,あまり興味を持てないのでパス.小難しいのが好きなオタク向きだとは思う.
 お薦めはリバタリアニズムある.
 これも勝手な解釈だが,リバタリアニズムとは「個人の自由を最大限に認める社会の実現可能性についての思考実験」である――ここで「個人なんて,実在するのか?」という疑問を持ち出しては身も蓋もないので,取り敢えず実在すると仮定して遊ぼう.
 法哲学者 森村進の『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書)によれば,一口にリバタリアニズムと言っても,極端な「無政府資本主義」から小さな政府を容認する「古典的自由主義」まで,幅は広い.
 森村自身は比較的穏健な後者の立場であることを明言しているが,それでも世間的常識から見ればかなりラディカルである.例えば,
 プライヴァシーの否定(こう書くと誤解されるか.「拡張された」プライヴァシー概念の否定,の意)
 臓器売買の自由
 著作権等の無体財産権の否定
 反民族主義
 婚姻制度の廃止
 貨幣発行の自由化
 といった,一見非常識に思われかねない主張が,それなりの説得力をもって述べられている.
 学者の机上の空論じゃないかという趣旨の批判に対して,ハイエク(は,リバタリアンではないが)を引用して,「経済理論家または政治哲学者の主要な仕事は、今日政治上では不可能であることが政治上で可能になるように、世論に影響をあたえることにあるべき」と反論してるところに心意気を感じる.

[ものである]
 池田晶子はちっぽけな個人なんて存在は否定しているのだろう,きっと.
 彼女の著作はどれを読んでも同じといえば同じで,要は「存在」と「考えること」を巡る考察の記録であり,俺は共感と反感の両方を覚えながら結局全部持っているのだが(積ん読も数冊あり),最新作『リマーク』(双葉社)は,少なくとも装幀に関しては今まででいちばん綺麗だ.横書きの日記の体裁で――著者は「認識メモ」と言っているが――断章集のようにも読める.
 どこから読んでも構わないが,ときどきアッコレハ俺ガ考エタコトト同ジダと思う記述が散見し,「個人」が霧散する快感を味わえる.
 最も短いのを引用する.1997年10月4日のメモ(> は原文には無し).
> 存在するとは、私であるということではない
> 存在するとは、何が存在することなのか
 まぁ,疑問はそこに尽きると言ってもいいんだけども.

2001/03/11 GESO