タイトル | : 2001/05/06■050 雑音浴 |
記事No | : 150 |
投稿日 | : 2013/10/05(Sat) 10:24:40 |
投稿者 | : 管理人 |
[雑音浴] 久々に雑音浴したくなり,ノイズ系4ユニット出演のライヴに行く(5月3日,高円寺2000V). いつもよりは元気がなかったものの,やはりインキャパシタンツが見ても聞いても面白く,一頭地を抜いていた.彼らに較べると,他のユニットは演奏が単調で音域も狭いと感じざるを得ない. 雑音浴には,大音量で鼓膜を痛めつけることでストレスを解消したり,被虐的快感を得るといった効用もあるけれど,それは初歩的な楽しみ方であって,むしろ,電気的に増幅変調された騒音を聴き続けてある一線を超えれば,意識は明瞭なままで気分が静まり安らいでいく,その鎮静効果の方が重要だと思う(この点で,ノイズとサイケは対照的である.後者の効用は実は「覚醒」ではなく「酩酊」であるから). 俺が初めてその種の鎮静効果を体験したのは,四半世紀ほど前,京都のニコニコ亭というハードロック喫茶で,確かアルテックのスピーカの真ん前に座って,当時としては鼓膜も破れんばかりの大音量でピンク・フェアリーズ(だったと思うが記憶は曖昧)のアルバムを聴いていたときだった. ハードロックはノイズと違って,概ね定常リズム・旋律・歌詞の明瞭なヴォーカルを伴っている――つまりは「音楽的」である――わけだが,大音量と大音圧がもたらす効果の点では,今日のノイズに共通するものがある.換言すれば,ハードロックから音楽的な要素を排除し,残された音響効果を強調すればノイズになる,と言えるかも知れない(もちろん,違う系統のノイズだってあるけれど). そして,鎮静効果をもたらすという点において,一見対極にあるノイズ系とニューエイジ系は,共に「癒し」の音楽だと言える.ただし,ノイズを癒しとして享受しうるのは,いわゆる先進国の生活者に限られる,というのが俺の直観なのだが. 因みに,「ノイズにはあらゆる音が含まれている」みたいな言い方は,レトリックに過ぎぬうえにロマンティックな匂いがして,俺はあまり容認できない. また,「純粋ノイズ」というのも観念に過ぎないと思う.人為的な「演奏」である限り,ノイズといえども意味から逃げ切ることはできないからだ. だが,できる限り意味付けを拒否してノイズを演奏しようと努めることは,結構なことである.少なくとも,かつて(今でも?)一部のバンドが試みたような,ノイズにエログロだの神秘主義だのアナーキズムだのといった観念をくっつける試みは,唾棄すべきものだと思う.
2001/05/06 GESO
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