タイトル | : 2006/10/16■136 「ムーンベースは月面基地」って,そのまんまじゃん |
記事No | : 236 |
投稿日 | : 2013/10/05(Sat) 16:42:06 |
投稿者 | : 管理人 |
[質問] 敗者の奏でる楽器は何か?
[HD無宿] 最近の傾向として,内蔵HDよりも外付HDの方が実売価格が安い=剥き出しのブツよりもケース入りの方が安いので,不思議だなぁ...と思っていたのだが,秋葉のクレバリーで外付よりも安いWestern Digital社製内蔵HDを見付けたので,購入.320GBで9,998円也.IDEだけどね. その320GBと,手許のバッファロー社製外付HD2台(中身はSeagate社製160GBとSAMSUNG社製120GB)をケースから取り出したのと,更に余っていた内蔵HD1台(Maxtor社製80GB)を,ノバック社製4個用HDボックスに纏めて収納した. 余った1個用HDケースの一方に,元は内蔵だったのをCorega社製外付ケースに入れて使ってたメインデータ用のHD(Western Digital社製250HGB)を,移した.バッファローのケースの方が,より放熱効果がありそうだったから. 4個用ボックスに入れたHD群は,バックアップだの一時保存だの仮想記憶領域だのに使う.差し当たりはセパレートモードで.コンバインモードは,もしもの時がちょっと怖い. ...てな感じで,HDの着せ替え作業は完了.机の上もちょっとだけすっきりした. 新しいパソコンに買い換えるまで──多分,5年は先になる──ストレージ的にはこれで何とか保たせたいのだが... 5年後のパソコン環境がどうなっているか未だ予想がつかないが,バックアップが簡単かつ安全にできるように,最初からRAID10(或いはその後継的な技術)で組みたいところである.
[あんまり観てない] ○李相日『フラガール』 炭坑町とダンスという組合せは『リトル・ダンサー』を思い出させる. どちらも実話に基づく映画だが,あちらは一人の天才バレエダンサーの誕生を描き,こちらは「常磐ハワイアンセンター」の駆動力となったハワイアンダンスチームの誕生を描く. ベタな話ながら,役者全員に見せ場を配しつつバランス良く纏めた丁寧な演出が見事.「貧乏」をリアルに描いてるところにも好感. △独火星公演『独火星呼応計画'06東京 クゴッ −友よ、安らかにくたばれ』(10/6 公演二日目) 颱風並みの暴風雨が吹き荒れる上に底冷えする夜に,雨漏りの激しいテント内で芝居を観る...若バカしい時分だったらこれはこれでオツなもの,と楽しめたものだが,今じゃもうしんどいだけである. 面白かったか面白くなかったかで言えば,前作──一昨年上演──よりも面白かったと思う.それだけで済ませられれば結構なことなのだが,演る側も観る側も高齢化し,お約束の場面で客受けしている状況を観ていると,芝居の未来に希望を持てない気がしてくる. 何らかのイデオロギー──例えば,国境を超えたマルチチュードの連帯をもって帝国とグローバリズムに抵抗する,とかね──を主張する際に,直截な表現を採らず,敢えて暗喩に満ちた詩語と身体表現を多用して複雑な物語を描くというのが,この種のアングラ芝居の常套手段だと,俺は理解している. やり方としてはまだるっこしい気もするが,イデオロギーだけじゃなくて,物語の結構や細部に刻印される「作家性」だとか,役者の演技を裏打ちする「存在感」等々も併せて打ち出したいのであり,詰まるところそれら全てを含んだ「作品性」とでも言うべきものを訴えたいのだろうから,重層的な表現を選ぶのも無理からぬことだと思う. 問題は,そのようなやり方自体が古色蒼然に見えてしまうという点にある──題材や小道具にいくら新しい風物を導入したところで,構造自体は変わり映えしない.お馴染みの物語の,強度を失った反覆に過ぎないのだ. ...といった批判自体にも,既に黴が生えてしまった感がある. 個人的には,見世物としての面白さと贔屓の役者の存在でもない限り,最早芝居など観に行ってもしようがない...と思って既に久しいのだが. ○「パリの浮世絵師 アンリ・リヴィエール『エッフェル塔三十六景』」展(ニューオータニ美術館) 北斎の『冨嶽三十六景』を下敷きに,エッフェル塔を富士山に見立てたパリのリヴィエールの木版画群のほか,ロンドンのフランク・ブラングィンと漆原木虫との共作版画等,19世紀後半〜20世紀前半の西欧ジャポニズム美術を展示. 構図といい色彩といい,北斎や広重の影響がモロだが,詰まらない独創よりも優れた模倣の方が遙かに良いとさえ思わせる,見事な換骨奪胎ぶり. 19世紀末のパリの風景や人々に,それより少し昔の江戸の風景や人々が重ね映しされて,何とも味わい深い. ○木尾士目『げんしけん』1巻〜8巻 今度出る9巻で完結らしいが,イッキ読みしてみた. いかにも居そうなオタクや腐女子,居そうにもないオタク,オタクに関わりを持ってしまった一般女子(←結構オタクが感染ってたりする),たちが同じ大学サークル(「現代視覚文化研究会」=げんしけん)で織りなす群像劇漫画. 俺は親オタクでも嫌オタクでもないが,青春漫画として普通に楽しめた. オタクもそんな悪いもんじゃありません,付き合っても大丈夫ですよ,という一般人向けのプロパガンダのようにも読める. まぁ,ろくでもないオタクなんてごく一部,なんでしょうよ. ×京極夏彦『邪魅の雫』 不意に出たシリーズ最新作にして最低作. キャラを楽しむほかに術はなく,もうガッカリ. 内容は別にしても,いつもながら書き方が気になる.ここまで文章の泣き別れを排するのは一種の強迫神経症なのだろうが,冗漫な描写や無意味な改行で無理矢理行数を調整するのは如何なものか. それに,ここまでこだわるのであれば,唯一泣き別れのあるノベルス版『姑獲鳥の夏』を改訂しないのは,徹底さを欠くというものだ. 手直しした文庫版や愛蔵版で二重,三重売りして事足れりとするのかね? 京極の駄作に無駄な時間を費やしたせいで,都筑道夫の文庫本を週約2冊のペースで読んでいたのが一時中断してしまった.もったいない. 光文社文庫版「都筑道夫コレクション」全10巻は,未だ絶版になっていないほぼ唯一の文庫シリーズだし,バラエティに富んでいて楽しめるのだが,各巻とも既に持っている長編1本+レアな短編数編という構成のため,重複を免れず,揃えたくても躊躇してしまう悩ましいアンソロジーでもある. それでもまぁ,『七十五羽の烏 <本格推理篇>』,『猫の舌に釘をうて <青春篇>』,『女を逃すな <初期作品集>』あたりは集めざるを得ないところか. 例えば<青春篇>.9年ぶりに読み返した著者最初の長編ミステリ『猫の舌に釘をうて』は,本格推理小説であると同時に青春小説でも恋愛小説でも実験小説でもあるという作品で,そのセンスに改めて感心. 併録された短編群も,赤線廃止が迫った時代の新宿歌舞伎町界隈の風俗を活写した作品だとか,談志が笑点で大喜利をやっていた頃の落語界をモデルにしたと思しき作品だとか,一幕物の戯曲だとか,オールラウンド.流石writer's writerである. 因みに,writer's writerだとか,musician's musicianといった表現にぴったり合う日本語訳はないんだろうか.
[回答] 負け犬のオーボエ.
2006/10/16 GESO
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