タイトル | : 2009/06/23■168 農薬浴びても大丈夫? |
記事No | : 249 |
投稿日 | : 2013/10/05(Sat) 21:05:59 |
投稿者 | : 管理人 |
アップロードしそびれてるうちに6月下旬になってしもうた.
[姦賞] 水族館劇場公演『メランコリア 死の舞踏』(作演出 桃山邑) 5/24駒込大観音境内特設劇場にて. ○: 全体の雰囲気(往年のテント芝居を追体験したい向きは唐組を観るよりこっちを観た方が良い)・舞台装置(小道具の細部まで良くできてる)・観客への気配り(待ち時間の雨を凌ぐために屋根付きのバス停みたいなスペースまで設置されてる) ×: 脚本(メリハリないつうか,話になってない)・役者の演技(一部ベテランを除いてカリスマもアウラもなく,台詞が入ってない) 例によって結局「プロローグ」が一番面白かった――何かを期待させるからなのだろう――というのは,困ったものである.
渋谷アピア「移転直前17昼夜連続ライブ」 6/13,弾き語りソロが8人も出演する,非常に疲れる回. 中では灯心竹根(旧名くぼあつこ)・竹内ゆえ・竹内紀の歌詞と歌唱には個性が感じられたが,楽曲の独自性まで引っくるめると,やはり倉地久美夫が一頭地を抜いていたと言わざるを得ない. 倉地が持参したエレアコが本番直前に故障したため,初めて「フォークギター」を借りて演奏するというハプニングがあったが,珍しいものを見られてむしろ嬉しかった――演奏には何ら問題なかったし.借りたギターは実は友川かずきが店置きしてたものだった,という逸話がオマケ.
他に銀座ヴァニラ画廊「伊藤文學コレクション 薔薇族周辺のゲイ・エロティックアート」展でレトロな男色画の数々を観た.オトコの趣味も千差万別なのだな,と感じ入る. **この後の記述が「禁止WORD」に該当するとかで,載せられませんでした.固有名詞だから書き換えたら意味がないので削除したけど,スパム対策もちょっと不便だな...** **無料で置いてた「SEX & SEXWORK」という「セックスの安心と安全を考える情報誌」ってのが,意外にオサレであった.**
[嬰画] △横浜聡子監督『ウルトラミラクルラブストーリー』(2009 日本) ネイティブでも完全には聞き取れない全編津軽弁の怪作. 感覚優先で作られた野蛮なノンセンス映画であり,寓意性や象徴性を深読みする必要はないと思う.一種爽快感はあるが,主演が何者をも演じられる松山ケンイチでなかったなら,観るに耐えなかったんじゃないだろうか. それにしてもいつの間に邦画の女優は,本作の麻生久美子と,あとは綾瀬はるかばかりが主役を張るようになったの?
○想田和弘監督『精神』(2008 米・日) 岡山の小さな精神科病院「こらーる岡山」とそこに通う患者たちを,モザイク処理なし・音楽なし・説明なしであからさまに記録した「観察映画」. ありのままを伝えて観客に考えてもらおうという監督の誠意に嘘はないと思うし,患者たちの苦悩が生々しく伝わる痛くもリアルな映画ではあるが,どうせ皆さん誉めるに決まってるから,敢えて不満な点を書く. 一つ.モデルになった病院がかなり例外的な存在だということ.経営は楽ではないが,古びた普通の住宅そのままの病院は非常に敷居が低く,患者たちのコミュニティとしても有効に機能しており,看護士たちとの関係も親密かつ良好――元患者もスタッフとして働いているくらい――だ.何よりも,ただ一人の老医師は誰からも信頼される人格者――この人が亡くなったらどうなっちゃうのか心配――だし.こんな病院だからオープンに撮らせてくれたのだろうが,比較するために他の――殺伐とした?――精神科病院も取材した方が良かったと思う――取材拒否されたらされたで,その状況を記録すればいいんだし... なんて言ったら宮台真司に「社会批判の枠組に映像をハメ込むのではない」と怒られるかも知れないけど(「三つ」に続く). 二つ.映画に登場する患者たちが,かなり安定した状態下でしか記録されていないこと.皆病識もあるし,クスリのせいか顔と身体がむくんでる点が不健康に見える程度で,一見健常者と変わらない.だが,これでは現実の半面しか伝わらない.なぜ多くの患者が家族に忌避され,見放されてしまったのかを推測するためにも,酷い発作を起こしたときの記録も,少しは撮るべきだったのではないか. 三つ.この作品が,あたかも先入観のない真実の記録であるかのように喧伝されていること.確かに観客を特定のイデオロギーに誘導するナレーションの類は一切ないが,作者=監督の「意思」が画面に漏出しないなんてことはあり得ないし,意思を露骨に表したって全然構わないと思う.ありのままを記録したところで,作品として上映するに当たっては,少なくとも観客の鑑賞意欲を維持継続させるために「編集」は不可避な筈だ.実際この映画でも,例えば野良猫や草花や鳥の風景――病院の記録としては無意味なカット――が,言わば箸休めのように挿入されている.もとより「編集」という作業自体が,自己検閲的な行為なのだと俺は考える.宮台の「真実のドキュメンタリーが、ここにはある。」という評は能天気な物言いでしかない. 俺がこの映画を観て感じたのは,それ自体が形而上的概念である――よって治療の対象にはなり得ない筈の――「精神」が病気になる/異常になるというのは,そもそもどういうことなのか? という基本的な疑問. 知覚/感覚の異常自体は,頻度はともかく誰にでも起こり得る現象である.俺も数年に一度くらい,鬱になったり幻聴が聞こえたりすることがある――幻聴は金縛りとセットの場合が多い. むしろ「社会的規範」がポイントなのだろう. 社会的規範に照らして異常な行動を示す者を,医療型の権力関係に組み込み,「精神病者」という識別標を貼り付け隔離/監禁し,今のところ「精神活動」の拠点と見なされている「脳」に直接/間接に作用する向精神剤と,暴力――今でもショック療法やってる所もあるみたい――による肉体的苦痛を併用した対症療法により,ソフト/ハードに矯正/無力化すること. それが,「こらーる岡山」ならぬ一般の精神科病院における日常業務なのだろう... なーんて妄想でものを言ってるけれど,確信に近かったりする.
[涜書] △西澤保彦『収穫祭』(幻冬舎 2007) 「こんなに殺していいものか!?」(惹句)――よくねえよ,と言いたくなる,西澤のダークサイド全開のエログロミステリ.いくら奇矯なトリックを強引に納得させる屁理屈が持ち味の作者とは言え,本作は設定も動機も無理矢理すぎて納得いかない.
○児玉清『負けるのは美しく』(集英社文庫 2008.親本 2005) 自伝的エッセイ.「アタック25」の人で読書家くらいの認識だったけど,自己分析と含羞の人であった.巧みじゃないけど良い文章.
○服部まゆみ『一八八八切り裂きジャック』(角川文庫 2002.親本 東京創元社 1996) 1888年の倫敦を舞台にした細部まで目配りがきいた歴史ミステリであり,小説についての小説でもある.名探偵役と語り手はホームズ+ワトスンと言うよりも御手洗+石岡. 服部の代表作といえば『この光と闇』かも知れないが,あれはアイディア一発勝負の,一作家につき生涯に一度だけ使うことが許される(と思う)トリックを使ったシンプルな作品で,手の込んだ本作とは較べようもない.
△同『ラ・ロンド』(文藝春秋 2007) 連作3編から成る,TVドラマすら連想させる臆面もない「恋愛小説」.まぁ確かに恋愛の機微を描いてリアルではあるんだけど,これが遺作ってのはちょっと淋しいような...
○同『時のアラベスク』(角川書店 1987) 第7回横溝正史賞受賞作.発表当時においてもアナクロな「探偵小説」だけど,その反時代的な所が美点なのでしょう.文章は既に完成されている.
◎シオドア・スタージョン『海を失った男』(晶文社 2003) スタージョン――トイレットペーパーやペーパータオルがミシン目の所でちゃんと切れないことをずっと気に病んでいた作家――はもちろん凄いセンスだが,若島正のアンソロジストとしてのセンスも光る逸品揃いの中短編集.俺の好みは「成熟」「三の法則」「そして私のおそれはつのる」あたり. 「三の法則」について編者は「こうしたテーマを扱うのなら、SF的な設定は絶対ではなく、異星人による介入という仕掛けがいかにも作為的であるという感は免れない。わたしはそこに、SF作家としてのスタージョンの栄光と悲惨を見る。」と書いてるけど,俺は発表された時代(1951年)を考えれば,一般小説のスタイルでは「不道徳」と非難されそうな内容だからSF仕立てにしたんじゃないかと想像するのだが...
○辻真先『仮題・中学殺人事件』(創元推理文庫 2004.初版 朝日ソノラマ 1972) 久々に再読.中学生から大人まで楽しめるメタミステリの傑作.こういう作品を絶版にしておいちゃいけない.
△大村友貴美『首挽村の殺人』(角川書店 2007) これも横溝正史ミステリ大賞受賞作(第27回)――賞の名前,いつ変わったんだ? 現代の過疎化した無医村を舞台に連続「見立て」殺人+巨大熊との闘いを描く「これが、21世紀の横溝正史だ」(綾辻行人)という惹句どおりの作品.横溝へのオマージュとしてソツのない出来だが,問題は2作目以降に何を書くかだろう.
○奥泉光『その言葉を』(集英社文庫 1993.親本『滝』1990を改題) 「その言葉を」「滝」の中編2作を収録. 奥泉のテーマは一貫して「七〇年代的な関係の不(非)可能性」(清水アリカ)――より限定的に言えば「言語によるコミュニケーションの不能」――なのかも知れない.確かに,これまでに読んだ彼の作品中で十全なコミュニケーションをなし得ていたのは,人語を解する猫たちというファンタスティックな存在ぐらいで,人間たちは皆コミュニケーション不全なのであった.
△古田日出男『聖家族』(集英社 2008) この作品を長大なものにした要因の一つは執拗な反復記述であり,その手法はこの妄想のウラ東北史を読者に信憑させる催眠効果を併せ持つ.青森の「狗塚」というイエの「血の伝承」の物語ではあるが,ドロドロした伝奇小説風の作品ではなく,むしろ論理的に構築された――対照的なキャラクターを記号的に布置している点一つ取ってもそれは明らかだ――詩劇的な作品である.反面,冗長なコンデンストノヴェルといったスカスカな感じもする.要は形式と容量とが不均衡ということだ.叙事詩的作品として文体を含め共通点が多い『ベルカ,吠えないのか』と較べると,本作は長すぎるし,『ベルカ』は短すぎる.狙ってやっているのであれば文句を言っても詮ないことだが. 「扉一」から「扉五」までの五部から成る物語は一見複雑だが,同じ説明が何度も繰り返されるうえに,ご親切にも中盤で物語前半の要約までしてくれるから,難解で困るということはない. 前半は面白い.特に,狗塚牛一郎・羊二郎兄弟の殺人(=肉体の抹殺)行脚と,彼らの対立項である両親の殺心(=精神の抹殺)行脚の二つが交わることなく交互に描かれる「扉二」は,疾走感があって良いし,東北ウラ名所ガイド兼ラーメンマップにもなってて笑える. しかし,後半は失速気味.「扉二」と対称な形に構成された「扉四」では,狗塚カナリア(狗塚兄弟の末妹)の二人の子供が誘拐されるという一見派手な事件が描かれるのだが,どうも散漫で面白くない.反復記述がマイナス効果を生んでいる.そして,冠木家(カナリヤの嫁ぎ先)の来歴を史実を交えて記述する最後の「扉五」が取り分け退屈なために,全体として尻すぼみの印象が残ってしまう.「外伝」でも書いて補充してもらわないと,完結感/満足感が得られない. それにしても,俺としては勘弁して欲しい「犬とビートルズへの偏愛」を臆面もなく描く作家として,伊坂幸太郎は許せるのに古田日出男は許せないのは何故なのか,自分の偏見を分析してみたいと思う.
○笙野頼子『母の発達』(河出文庫 1999.親本 1996) 今更読んだけど,面白いじゃないっすか.笑える母親殺し純文学.
漫画は新刊を3冊.浦沢直樹×手塚治虫『プルートゥ 08』(小学館)・とりのなん子『とりパン 7』(講談社)・こなみかなた『チーズスイートホーム 6』(講談社).『プルートゥ』はこれにて完結.浦沢は良くも悪くもソツがない.
2009.06.23 GESO
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