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タイトル2009/09/21■171 確かに「世界は分けてもわからない
記事No252
投稿日: 2013/10/05(Sat) 21:09:58
投稿者管理人
[日本映画ってどーよ]
△井口昇『片腕マシンガール』(2007 日・米)
 「映画秘宝」誌言うところの「切株映画」.弟をヤクザの息子に殺された姉の復讐劇で,『キル・ビル』+『スケバン刑事』+『セーラー服と機関銃』という感じ.派手に切株(人体破壊描写)をやるのは構わないけど,これだけのべつまくなしだと刺激に麻痺して怖くも可笑しくもなくなるから,逆効果である.切株技術自体,三池崇史『殺し屋1』(2001 日)あたりで既に行く所まで行ってる気がするし,確信犯的B級映画であっても,もっと真っ当に演出して欲しい.

△横浜聡子『ジャーマン+雨』(2007 日)
 この監督はその野蛮な感性が評価されてるらしいが,俺にはどうも嘘臭いというか,奇を衒ったものに感じられて,未だ信用できないのだった.

○西川美和『ディア・ドクター』(2009 日)
 過疎地の医療問題を取り上げつつ,正義派ぶった凡庸な感動作に仕立て上げていない点に好感が持てる.鶴瓶を始め多くの役者・素人の演技が自然で良いけれど,取り分け八千草薫が素敵.

×崔洋一『カムイ外伝』(2009 日)
 酷い,酷すぎる.これだけ何も残らない映画は,最近では『バーン・アフター・リーディング』以来だ――あっちの方がまだ映画にはなってたけど.
 お金も手間もかかってるし,松ケンを始め役者たちも体を張って熱演してるのに,これだけ薄っぺらな駄作になってしまった責任は,一重に脚本(宮藤官九郎+崔)と監督にあると思う.どんなによく出来たCGでも,多用すれば安っぽく見えてしまうということも,改めて分かった.

[律儀な読書]
△桜庭一樹『少女には向かない職業』(創元推理文庫 2007.親本 2005)
 夏に一人,冬に一人,身近な人間を殺さざるを得なかった女子中学生の物語.ジュブナイル出身の作家は鍛えられてるなーと思わせる巧い青春小説で,グッと来る所もあるけれど,ミステリとしては意外性に乏しく,何はなくとも「吃驚したくて」ミステリを読み続けている者としては,少々物足りない.

△リチャード・ハル『伯母殺人事件(世界推理小説全集64巻)』(東京創元社 1957.原著 1935)
 気になりつつも未読の小説――山ほどあるが――の一つを漸く読了.
 今回読んだ切っ掛けは,積ん読にしてた折原一『叔母殺人事件』を読む前に,軽く一冊と思って読んだ『少女には向かない職業』の中に,この作品への言及があったから.こういう偶然の重なりは楽しみたい方なので,明らかにハル作品を意識して書かれた折原作品を読む前に,本家の作品を読むことにした.
 訳文も含めて流石に古臭さを感じざるを得ないし,発表当時としてはまだ新しかった倒叙形式のミステリなるも,プロットが単純なため結末が見えてしまう――ミステリ擦れした後世の読者ゆえの不幸と言うべきかも知れないが.
 ラスコリニコフをヘタレにしたような主人公――この手のモラトリアム青年は相当数現存するという点で,古びていない――が,自分の後見人で頭が上がらない伯母――確かに喧しくて底意地悪い婆ァである――に対する殺意を募らせ,二度三度と事故死に見せかけて殺そうと試みるお話だが,今日的には,サスペンス性よりも,対立する両者の独白が醸し出す黒いユーモアを楽しむべき作品だと思う.

○折原一『叔母殺人事件 偽りの館』(講談社文庫 2007.親本 2004)
 で,こちらが原典を換骨奪胎した70年後の小説.遙かに複雑な造りの叙述ミステリだが,折原を読み慣れていれば真相を見抜けぬこともない.解説者(結城信孝)が指摘するとおり,折原の黒いユーモアの質は元々ハルに近いようなので,違和感のないオマージュとして読める.叔母と甥の掛け合いには原典を踏襲した所が多く「思わずニヤリ」できるので,原典を先に読んで正解.

○二階堂黎人『人狼城の恐怖 第一部〜第四部』(講談社文庫 2001.親本 1996〜1998)
 本格ミステリ界の保守本流による世界最長のミステリ.鏤められた数々の不可能犯罪の謎の多くが,種を明かされれば子供騙しに過ぎないこと――でもメイントリックはなかなかのもの――に代表されるように,ルブラン,カー,乱歩,横溝らの古き良き探偵小説の体裁を採っているが,島田荘司,笠井潔,新本格派の諸作品も当然踏まえたうえで確信犯的にやっていることだろう.主な舞台は独逸と仏蘭西だが,根本的に無宗教な日本人だから書けた作品に思える――『エヴァ』がそうだったように.これでもう少し文章が巧ければいいのになぁ...

○天野頌子『警視庁幽霊係と人形の呪い』(祥伝社ノン・ノベル 2009)
 シリーズ第5作.コージー・ミステリもオカルト・ミステリも嫌いだが,両者に跨る本シリーズだけは何故か例外.最新作がベストというのは作者の実力が伸びている証左で,喜ばしい.

△瀧波ユカリ『臨死!!江古田ちゃん 4』(講談社アフタヌーンKC 2009)
 特装版(3,000円)には限定Tシャツ――江古田ちゃんの全裸イラスト入り――が付いてくるけど,そんなの着て歩けるかよ!ってことで,通常版を購入.内容は良くも悪くもマンネリ.

○美内すずえ『ガラスの仮面 44』(白泉社花とゆめCOMICS 2009)
 相変わらず読了したとたんに続きを読みたくなる麻薬的漫画.今回は物語に大きな動きがあったので,特に渇望が激しい.珍しく短いインターバル(半年)で出たけれど,次巻はいつになることやら.

△アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会 1』(創元推理文庫 1976.原著 1974)
 これも長らく気になってた連作短編小説.安楽椅子探偵ものの歴史に新たな一頁を加えた作品と評価されているらしいが,俺はそれほど感心しなかった.常に真相を看破する給仕の推理に必ずしも説得力が感じられないし,推理合戦に参加する他のメンバーの推理がお粗末すぎるし,扱われる事件が小さすぎるからである.

○松浦理英子『犬心』(朝日新聞社 2007)
 「親指P」の前歴がある松浦だから,ヒトを犬に変身させたからと言って驚くには当たらないけれど,現実の犬は嫌いな俺でも楽しめたので,犬好きの読者にとっては堪らない小説ではないかしら.
 松田洋子『相羽奈美の犬』(ぶんか社「トカゲ」に連載中)は確かに本作品にソックリだが,盗作ではないと思う.同じ歌("I WANNA BE YOUR DOG")に触発されて生まれた,腹違いの妹のような作品と言えばいいか...
 犬――それも牡犬――になるのが30歳の女性編集者/主人になるのが29歳の女性陶芸家という設定において,松浦作品の方が屈折度が高く,セクシュアリティの追究という点でもより挑発的だが,これには掲載媒体の違い――松田作品は少女向けホラー漫画誌,松浦作品は対象を限定しないインターネット配信誌――の影響も大きい.縛りが多い点で松田の方が不自由だが,彼女は彼女で制約下で限界まで頑張りそうだから,そっちの続きも楽しみ.

○牧薩次『完全恋愛』(マガジンハウス 2008)
 辻真先が往年の作中人物名をペンネームにして書いた書下し本格ミステリ.終戦直前から現代までの長いスパンにわたる物語で,現実の世相も絡めて駆け足で辿る昭和・平成史の趣もある.
 前半は一見凡庸な悲恋物語だが,中盤で不可能犯罪が発生するあたりからミステリ色が濃くなり,最後にはタイトルの意味も含めて全ての伏線が回収されるという,ベテランの技.他の作家が書いたら相当重苦しくなりそうな内容も,この作者の資質ゆえ良くも悪くも軽快で,それほど深刻さを感じさせない.
 辻ともあろうものが...と思う誤記を数箇所見付けたが,本筋には影響しないからまぁいいか.

△辻真先『盗作・高校殺人事件』(創元推理文庫 2004.親本 1976)
 その「牧薩次」が登場する初期三部作の二作目を久し振りに読み返す.アイディアてんこ盛りの本格ミステリ.早めに犯人の目星が付く点は残念だが,それでも楽しめる.
 都筑道夫と辻真先の関係は,植木等と所ジョージの関係に似ているとふと思ったが,余り根拠はない.

○小松左京監修・瀬名秀明編著『サイエンス・イマジネーション 科学とSFの最前線、そして未来へ』(NTT出版 2008)
 2007年9月1日にパシフィコ横浜で開催された第65回世界SF大会/第46回日本SF大会のシンポジウムの記録と,シンポジウムに触発されて書かれたSF短編とエッセイから成る.パネリストは研究者9名とSF作家6名.テーマは主にロボットとAI.
 「ゆりかごから墓場まで」個人に同伴し,記憶と行動をサポートするロボット――実質的にはソフトウェアであり,一つの個体ではない――を理想とする松原仁(公立はこだて未来大学)を始め,登場する研究者諸氏は,体や脳に機械を埋め込まれることにも抵抗が無さそうで,多かれ少なかれマッド・サイエンティストである.
 個人的には「呼吸の制御が前適応となって、一部の動物が発声学習するようになった」という岡ノ谷一夫(理化学研究所所員)の仮説が,真っ当ながら面白かった.

[某劇団公演を観ながら考えた断片]
 演技すること自体を下品な行為として全否定したのは確か稲垣足穂だが,この意見は余りに身も蓋もない.
 別に役者でなくとも,人は日常で多かれ少なかれ演技して生きている/演技しなければ生きていけない.
 実際,足穂だって足穂を演じて生きて死んだ筈である.小説を書くことだって広義の演技に含まれるのだし.

 芝居の演技が不自然に見えるのは,それぞれの役者が,相手や自分が次に発する言葉を「前もって知っている」ことが露呈するときだ――内田樹もどこかにそんなことを書いていたな.
 現実の会話は,その場その場で生成するものだから,誰かの発言に反応する前に,長い短いはあっても必ずタイムラグが生じる――自分のことしか考えないで発言する場合は別だが.
 ところが,不自然な演技においては,相手の言葉が終わるや否や――酷い場合は終わるよりも早く――それに反応する言葉が発せられてしまう.まるで予め台本があって喋っているかのように――実際,台本がある訳だが.

 台詞に言い淀みや言い間違いがあるのは構わないが――現実にあるのだから――暗唱するような語りは,不自然である.

 言葉のみならず,動作にもフライングが見られることがままあり,更に不自然さが嵩じることになる.

 逆に言えば,自然な演技とは,脚本がありながら,あたかもその場でアドリブで演じているかのように見える演技ということになる.
 それは至難の業,というよりも,個人的資質による所が大きいのではないだろうか.

 映画のように編集可能な媒体であれば――時間はかかるかも知れないが――自然な演技を捏造することは可能である.
 しかし,リアルタイムで進行する舞台劇において自然な演技をすることは非常に難しい――というか,不可能に近い.
 そもそも観客が聞き取れるように大きな声で滑舌良く発声しなければならないこと自体不自然であるし,観客の目にとまるように動作を多少誇張しなければならないことも不自然である.

 突き詰めれば,演じる側と観客とがある程度の不自然さを約束事として共有しない限り,舞台劇は成立しない.
 だが,いくら約束事と言っても,間合いのない台詞の応酬等は,不自然の中でも不自然だろう.

 逆手を取って不自然さを強調する行き方もある.台詞や動作に「型」を作るなど,約束事を様式化し,洗練すること.
 多くの伝統芸能はそういう方法で生き延びて来たのだろう.

 様式化を否定する所から始まった筈のアングラ演劇も既に40年以上の歴史を持ってしまった.
 この間,否応なしに様式化されたものは何か,様式化を免れたものは何か.そのことについて誰か自覚しているのか,いないのか.

2009.09.21 GESO