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タイトル2010/01/25■175 猫の飼い主にならなかったら観ていなかった映画
記事No256
投稿日: 2013/10/05(Sat) 21:15:20
投稿者管理人
[また一人逝く]
 大里俊晴の訃報からちょうど2か月経った1月17日,今度は浅川マキの訃報.
 いつかは来る日と分かっていたが,実際に来られると,応える...
 去年の12月27日,新宿ピットインで観たライヴが最後になってしまった.あの日はステージ下座齧り付きだったので,今までで一番目近にマキを見ることができたのだが,確かに今ひとつ元気がなく,アンコールにも遂に応えなかった.しかし,あれから僅か3週間後に亡くなるとは思わなかった...
 ビクターからデビューした頃――本人にとっては忘れたい過去らしい――のプロフィールによれば,1944年5月23日生まれだったのに,本当は1942年1月27日生まれだったということは,2歳鯖をよんでいたわけだが,生まれ年だけじゃなく月日も全く変えてたってのはどういうことなんだろう...などと,どうでもいいことを思って気を紛らわせる.

[見聞録]
○飯田基晴『犬と猫と人間と』(2009 日)
 日本で「処分」される犬と猫の数は,年間30万頭以上に及ぶそうだ.
 ある猫好きの婆さんからの依頼で撮り始められた本作は,当初は関心が薄かった監督の問題意識が次第に拡大・深化していく課程を描くドキュメンタリーにもなっており,取材対象は各地の保健所,ボランティア団体,獣医,英国のアニマルライツ団体等々,多岐にわたる.
 2007年の「崖っぷち犬」騒動――あったなぁ,馬鹿騒ぎ――や,無造作に捨て置かれた犬猫たち,虐待を受けて足を失った犬猫たち,炭酸ガス室や睡眠薬注射によって安楽死させられる犬猫たちなど,居た堪れない映像があからさまに記録され,「人間であることが嫌になってきた」という監督の呟きが重く響く.
 「可愛い」や「可愛そう」だけでは済まされない問題提起の映画として丁寧に作られているのはもちろんだが,和むシーンも沢山あるので,犬好き・猫好きにとっては必見の映画であろう.
 要は,飼ったら捨てるな/捨てるなら飼うな,ということなんだけどね.

○倉地久美夫(g, vo)ソロ(1/9 学芸大学前 APIA40)
○倉地久美夫(g, vo)+久下恵生(ds)+飯田華子(紙芝居)(1/10 渋谷 O-Nest「円盤ジャンボリー」)
 9日のソロでは,ラストナンバーが久々の「うわさのバッファロー」だったのが嬉しかった.
 10日のセッションは,飯田のエグい紙芝居(スクリーンに拡大映写)に倉地・久下が伴奏する形――倉地は台詞でも参加――で始まり,飯田の退場後,倉地+久下デュオで倉地作品を4曲演奏するという構成.
 後で聞いた話では,倉地+飯田のコラボは2回目とのことで,1回目のとき真面目に台詞を喋りすぎて客に引かれたのを反省した倉地が,適度に受け狙いの演技(美輪明宏ふう台詞回し)をして,予定調和的にまとまった感じ.
 倉地+久下デュオは,リハも打合せもなしのスリリングな応酬.それまで倉地を聞いたことがなかったという久下が,その歌と演奏をリアルタイムで分析し完璧に即応する様は,凄まじかった.複雑な倉地の楽曲に初演でこれだけ合わせられるドラマーは,他にはまずいないだろう.
 通常の共演者としては外山明(ds)がベストだが,数年に一度くらいは久下とのデュオが観たい.

?水戸芸術館現代美術ギャラリー「ボイスがいた8日間」
 「ヨーゼフ・ボイスが1984年に来日した際の映像や、日本の美術館や個人のボイス作品のコレクションを通して彼の芸術活動を紹介する」回顧展.展示作品数は相当な量だし,映像資料(インタビューや講演のビデオ等)も多いので,しっかり見るとなると数日はかかかってしまうだろう.
 不遜なことを言えば,他愛のないモノばかりだし――鉛筆の書き込みがある木箱だとか,スタンプを押しただけの紙袋だとか――ドローイングも巧いとは思わないけれど,これらの作品群は「鑑賞」の対象ではなく,「思考」の痕跡や「問題化」の契機として提示されたものなのだと捉えれば,納得がいく.取り分け社会における芸術の役割について考えさせようとする作品が多い.
 とは言え,作品の背景に関わる情報を知らなければ隠喩を理解することが困難なものや,解説されたらされたでむしろ興醒め,というものが多いのも事実である.
 例えば,ソケットプラグ付きの白熱電球をレモンに突き刺したオブジェ(Capri-Batterie)があるが,これは「文明の生態学的バランスに対しての現代の隠ゆ」であり,「人工的なものと物質、技術的構造と有機的物質がそれぞれ相反して前提となる事を示している」のだそうである(Gary Indianaによる解説.『ボイス マルチプル:博愛のヴィークル』より).なるほどとは思うけど,何だかなぁ...

△三津田信三『厭魅の如き憑くもの』(原書房 2006)
 初めて読んだ作品『作者不詳』が気に入らなかったので,この作者の小説は敬遠してきたのだが,『○○の如き○○もの』シリーズは好評らしいので,1作目を読んでみた――105円だったし.
 敗戦後暫く経った頃――年代は明示されていない――の,憑き物筋に支配された山村を舞台にした,おどろおどろしいホラー・ミステリ.それなりに良く出来ているのだが,全ての謎が解明されたかに見えても不可解な事象が残り「それではあれはいったい何だったのだろう?」的に終わるのは,怪奇ものの定番すぎて,新味に欠ける.

○道尾秀介『片眼の猿』(新潮文庫 2009.親本 2007)
 私立探偵の一人称というハードボイルドスタイルはお約束どおりだが,ちゃんと捻りはある.
 主人公とその仲間たちがそれぞれ「特殊な」能力を持っているという設定,読者をミスリードする仕掛け,章題の付け方,図版の使い方,読みやすさへの配慮等に,伊坂幸太郎作品――具体的には『陽気なギャングが地球を回す』や『アヒルと鴨のコインロッカー 』――を想起させるものがあるが,これは真似ではなく「挑戦」と見た.
 で,本作に対する伊坂からの回答が『SOSの猿』だったりして...未読なので分からないけど.
 という具合に,誤読と妄想を楽しむのだった.

○道尾秀介『骸の爪』(幻冬舎文庫 2009.親本 2006)
 こちらは,『背の眼』に続く真備庄介シリーズ.今回は「仏像」がモチーフ.
 『片眼の猿』とは全く異なる型の端正な民俗学ミステリで,正統派の本格ファンを満足させる出来である.
 こうして,「私たちは、いつの間にか道尾秀介という小説家が大好きになっていたのである」(杉江松恋.好きな書評家じゃないけど).
 図書館では大概の道尾作品が貸出中だったが,辛うじて『ソロモンの犬』と『ラットマン』は借りることができたので,これから読むところ.

○シオドア・スタージョン『人間以上』(ハヤカワ文庫SF 1978.原著 1953)
 今更という気もするが,読みたくなって読んだ.
 矢野徹のかなりひどい訳文にも拘わらず一気に読めたのは,やはり元が傑作だからだろう.
 超人類ものの古典と言ってよさそうな,新しい種族「集団有機体(ホモ・ゲシュタルト)」の誕生〜成長〜完成を描いた,遣る瀬無いSFである.孤独への願望と連帯への願望との間で引き裂かれる寄る辺のない超能力者たちの姿は,作者本人の姿でもあるらしい.
 因みに,『サイボーグ009』が本作の影響を受けていることは,疑いえない...あるいは常識に属することかも知れないが,自分で気付いたということが,俺にとって重要なのである.

2010.01.25 GESO