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記事No : 189
タイトル 2002/12/20■089 長い....溜まってたから
投稿日: 2013/10/05(Sat) 14:29:31
投稿者管理人

[ADSL]
 去年の8月に予約したのに一向にやって来る気配のない光ファイバー(ゆうせんBROAD-GATE)に痺れを切らし,サービス合戦華々しいADSLに加入してみた(OCN.アッカ系).
 一応12Mbpsだけど,体感的にはISDNの5〜6倍程度の速さかしら,まだ実測してないけど.
 まぁ,今までよりは随分速いですよ.速くなくてどうする....光とは比較にならんが.
 モデムを直接繋ぐぶんには何の問題もなかったのに,無線ルータをかましてLANを組もうとしたら設定にトラブって,四苦八苦.
 いったん成功したものの,原因不明の障害で一度全てがワヤになってしまった.
 前例に倣って,バックアップしていたシステムドライブをインストールし直しすなど,試行錯誤の挙げ句やっとうまく繋がり,現在に至る.
 しかし,IPアドレスの設定ってめんどいなぁ....
 一応ルータ(売れ筋のAir Station)が自動的に設定してくれるということになってるんだけど,実際にはなかなかすんなりといかなかった.
 因みに,今は自作のデスクトップと,あかなるむ師から譲り受けたMebius(初代サムライ)を使ってる.やっぱり,ノートもあった方がいいもんですね.

[山崎努つながり]
 一番最近観た映画は『刑務所の中』だが,ほぼ原作に忠実な味わいで,面白かった!!
 崔洋一らしからぬ坦々とした演出が,むしろ功を奏している――いつもの調子で作られたらちょっと違っちゃうのでは,と実は心配だったので....
 この映画を観た呉智英が「漫画の富を映画に簒奪された」などと危機感を表明していたが,いいじゃんそんなこと.狭量というか,馬鹿だと思う.
 役者陣(山崎努・香川照之・田口トモロヲ・重松豊・村松利史・大杉漣等.窪塚くんもちょろっと出演)も皆良かった.
 ハナワ役が山崎努ってのは,どう崩しても格好良すぎるが,入魂の演技が空回りしていた『模倣犯』に較べれば,ハマっていたと思う.
 それにしても『模倣犯』は「デジタルビデオで遊んでんじゃねぇよ!」と言いたくなる愚作で,あんだけ原作をいじられちゃ,宮部みゆきが怒るのも無理はないな.なんだあの結末は!
 森田芳光ってこんな駄目監督だったっけ?と呆れたことである.

[マイトガイ・リターンズ]
 「マイトガイ・リターンズ ―小林旭二十一面相―」と題して9月7日から11月29日まで中野武蔵野館で連日レイトショー上映されたアキラ主演映画21本を,完観(←こんな言葉はない)した.
 1作品につき4日間の上映だったので,なんとかやりくりして行けたのだが,それにしてもよく全部観られたもんだ,と自分に感心.そんなに暇じゃないのにも拘わらず.
 『絶唱』(58),『無頼無法の徒・さぶ』(64)といった文芸作品は映画として評価が高いらしいが,ラインナップのどれもが傑作という訳ではない.
 しかし,どの作品にも黄金時代の邦画の勢いがあり,アキラをはじめキャラの立った俳優揃い(宍戸錠・金子信雄・川地民夫・芦田伸介・高品格・藤村有弘等々)なので,十分楽しめた.
 公開当時(1958〜65年頃)は,ほぼ毎月,新作が上映されてたんだから,ファンにはたまらなかったことだろう.羨ましい.
 お話自体は,整合性がなく,勢いだけで作られた感じのものが多い.「銀座旋風児(マイトガイ)」シリーズなど――,原作が川内康範だけあって――かなり無茶苦茶である.
 これは川内康範作品ではないが,一つ例を挙げる.
 流れ者シリーズの5作目『風に逆らう流れ者』(61)に,山口明扮する悪党の一味が浅丘ルリ子ら人質を火薬庫に閉じ込め,外から導火線に火を付ける場面がある.
 この火は,救出に駆け付けたアキラによって――例によって鞭を使って――消し止められ,事なきを得るのだが,それにしても,悪党たちがなんでこんな無謀なことをしたのか,訳が分からない.
 何しろ,その火薬庫には,島一つ吹き飛ばすほどの大量の火薬が収められており,もし爆発したら自分らだってあの世行き確実なのだから....
 極私的に印象深い作品・場面は数多い.
 『嵐を突っ切るジェット機』(61)で,自分を裏切った兄(葉山良二)と殴り合いの喧嘩をしながら,子供のようにわんわん泣きじゃくるアキラ.
 『ギターを抱えたひとり旅』(64)には,例によってキャバレーでアキラがギター抱えて突然歌い出す場面があり,このときの歌があの『宇宙旅行の渡り鳥』で,いかにも唐突.何でこの歌を?と思わせる.
 そう言えば,このときのアキラのギターストラップの掛け方も何か妙な具合だったなぁ.
 更に,松原智恵子とオルガンを連弾しながら歌う『ビニールの象さん』という創作童謡?――挿入歌としてクレジットされてもいない――が妙に耳に残る....
 『銀座の次郎長 天下の一大事』(63)には,元々子役出身で後に歌手として藤本卓也の名作『忘れさせて』を歌う市川好朗(当時15歳)が,質屋の坊屋三郎の隠し子役で出ていて,なかなか達者な演技をしていた.
 それと,この映画の帰り道,見知らぬ中年男性に呼び止められて,こんなやり取りをしたことを思い出す.
 男「すみません.私,今の『次郎長』途中から観たんですけど,畠山みどりの『いっぽんどっこ』が流れてましたが,本人は出演してたんですか?」
 俺「ああ,最初の方に出てました」
 彼「どういう役だったんですか?」
 俺「本人役なんだけど,アキラの友達で,お祭りのゲスト歌手として無料で出演する役でしたね」
 彼「お祭りというのは?」
 俺「銀座のお祭りをデパートの屋上でやるという設定で,屋上に櫓を組んで,その上で歌うんです」
 彼「『恋は神代の昔から』は歌いましたか?」
 俺「いいえ,『いっぽんどっこ』と『ちょうど時間となりました』の2曲歌って,すぐ帰りました」
 彼「そうでしたか....どうもありがとう」
 いやぁ,畠山みどりについて話すなんて,十何年ぶりだろう.渡邉浩一郎(90年没)と話して以来かも知れん.
 因みに,ここで俺らは便宜的に『いっぽんどっこ』と呼んだが,正しくは『出世街道』という歌であり,『いっぽんどっこの唄』は後の水前寺清子のヒット曲.どちらも歌詞に「いっぽんどっこ」(一本独鈷.仏具の独鈷(トッコ)形の模様を連ねて中央に一筋織り出した博多織.また,その帯――だそうだ)が出てくるので,混同してしまうのです.
 『遙かなる国の歌』(62)は,アキラがペット吹きのバンマスを演じるジャズバンドのサクセスストーリーであるが,行方不明の日本人母に名乗り出てもらおうと日比混血少年の山内賢――まだ子供だ――に『ダヒルサヨ』を歌わせヒットさせるという母子ものの要素と,期せずして麻薬密売に関わったその少年を付け狙う密輸組織と闘うアクションものの要素が絡む.
 ジャズをロックに置き換えればそのままロック映画になる定型的な物語だが,なーんでか気に入った.珍しく八方ハッピーエンドで終わるからか.
 アキラの映画,特に漂泊者系統(渡り鳥,流れ者シリーズ)には,物語の要請上,手放しのハッピーエンドは少ない.だって,事件が解決したら,自分に惚れたヒロイン(浅丘ルリ子,笹森礼子,または松原智恵子.それぞれに素敵....)を残してまた旅に出るわけだから.
 『南国土佐を後にして』(59)は,そんな渡り鳥シリーズの原型として重要視されている作品であるが,俺はそんなに面白いと思わなかった.
 それよりも,これを観に行った日(確か10月1日)は,台風が接近してたために――結局は逸れたんだけど――レイトショーが中止となり,お詫びに無料招待券を1枚もらったのが嬉しかった.
 もらいものといえば,このレイトショーでは,映画館窓口でチケットを購入すると,毎回――毎回,である――「密輸品」のスタンプを押した小袋(中身はイヤリング,ペンダント,指輪といった光り物アクセサリ)を観客全員にプレゼントしたほか,期間中2回,先着30名にポスター(アキラのDVDの宣材)のプレゼントもあった.安物とは言え嬉しい.太っ腹だな,中野武蔵野館.
 なんてことを書き続けても切りがないのでストップ.

[home (1)]
 小林貴裕企画・監督・撮影のドキュメンタリー映画『home』(2001)は,故郷に置き去りにした自分の家族3人(7年間引きこもっている兄・鬱病の母・末期癌の祖母)を,カメラ(デジタルビデオ)を通して何とか助けようとして作られたものだという.
 しかし,この試みは,当初小林が楽観していたように容易なものではなかった.
 兄は誰とも言葉を交わそうとせず,2階の自分の部屋から降りてくるのは,食器の上げ下げと入浴のときぐらい.潔癖性の彼は,家の中でもマスクと手袋を外さない.
 母は兄に怯えて近寄らない.小林がカメラを向けると,撮らないでくれと泣いて懇願する.
 祖母は末期癌というが,見掛け上は一番まともで元気そうに見える.しかし,彼女は離れに住んでいて,兄と母の対立に気付いていない.惚けているというわけではなく,他の家族が祖母には気付かせないように気を遣っているらしい.
 小林は,いったんは諦めかけて故郷を後にするが,意を決して再び帰郷し,兄との「対話」を試みる――
 「『癒し』映画なら簡単に作れる。しかし、ここでは映画が『治療』になっている.本当にそんなことが可能だったとは」と斎藤環が驚嘆している作品だ.
 カメラを介さないと家族と対話できないという監督も,病気と言えばビョーキであるが,彼にはそれしか手段がなかったというのは,嘘ではなさそうだ.
 最初はカメラを向けられるのを嫌がっていた家族が次第に気にしなくなったのは,「慣れ」もあるのだろうが,その前で激昂したり乱暴したりするのをある程度抑止する「緩衝剤的効果」をカメラがもたらすことを,家族が――無自覚のうちに――受容したせいもあるように思う.
 監督はそのことを弁えつつ,本音を激しくぶつけ合っているときなどは,「カメラは止めた」と嘘をついて撮影を続けたりもしている.この辺には強かな作家性が窺える.
 兄弟が殴り合いの喧嘩をする場面など,床に置き放しにしたカメラが腰から下だけを捉えており,異様な迫力を生んでいる.
 ドキュメンタリーといっても,記録映像を単に羅列するだけでは「作品」にならないのは当然のこと.
 例えば,この映画は,実家の母から突然電話が掛かってくるところから始まる――ただし,この部分は音声だけで,映像はない――が,そんな録音が残っていたことを「偶然」と認めるにしても,それを導入部に持ってくることは,監督の意図であり,物語として当然の要請に従った行為であるとも言える.
 また,演出――と言って悪ければ,合意に基づく準備――なしには撮影しえない場面も多い.
 例えば,小林と母親が車庫内の車の前部座席に並んで会話するのを正面から捉えた場面.当然ながら,あらかじめカメラをボンネットの上に設置し,位置合わせしておかなければ,撮ることはできない.
 この映画は,小林が不在のとき,兄が出奔して終わるのだが,最後の場面に使われる映像は,その前夜に弟のカメラをこっそり借りて兄自身が録画した独白である.
 家のどこかに隠されたそのビデオテープは,やがて弟=監督に発見され,映画の締め括りに必須の場面として,兄の反対を押し切って後日採用されるわけだが――
 独白を記録したい,という気持ちは分からなくもないが,本当に人目から隠したいのなら,ビデオを実家に置いて出奔するだろうか,という疑問は,当然浮かんでくる.
 人には,カメラを前にすると,無自覚に演技を始めてしまう習性があるようだ.
 そして,カメラで人を/自らを撮り撮られることが常態化すると,現実と虚構の境界は次第に曖昧になり....

[ストーリーテリング]
 一方,そんなことは当たり前でしょ,現実など語る端から虚構になっていくんだから,と語る/騙る映画が,トッド・ソロンズの『ストーリーテリング』である.
 今年観た映画の中では,今のところ――あと5,6本は観ることになりそうなので――いちばん面白かった作品だが,(以下略.続くかも)

2002/12/20 GESO


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